2015年8月23日日曜日

「決意だけでは変わらない」かもしれない世界も、抱きしめる

前回に引き続き、フジ余話。

フジといえばゴミ分別部隊。
ずっと学生環境NPOのA seed Japanのみなさんがゴミ箱担当大臣として「世界で一番クリーンなフェス」を担っていたと記憶していたんですけれど、今回気が付きました。"iPledge"という団体に変わっています。

NPO iPledgeの設立とA SEED JAPANからの独立について  iPledge
なるほど。そうだったんですね。
たくさんビールの紙コップを廃棄させていただきまして、大変お世話になりました。来年は、トイレットペーパーとしてまたお目にかかりたいと思います。



若く有望な人材たちがこういう場所に集い、活動を繰り広げている様はまったく胸がすきます。いいぞもっとやれ。
「世界は、決意で出来ている」というキャッチは人を引きつけるものがある。僕だってさまざまな思いが去来したりしなかったり。いくつか思ったことを。


ひとつめとしては、「いつかヒップではなくなってしまう」可能性について。
前提条件として、彼らは若く、野心的である、とする。しかし実践として、彼らは「ゴミの分別」をしている。その実践は、うちの近所にもある。
違いはフジ・ロックという場所にある。
たぶん、「世界で一番クリーンなフェス」という理念に共感するところがあって、この場所でのゴミの分別に特別の価値を見出したのだろう。でも、繰り返すけれど、実践は一緒だ。そのあたりをこれからどんな風に彼らが、解釈、消化していくのだろうか。

あの、批判的なつもりじゃないから、怒らないで聞いて欲しいんだけど。
人はそれぞれに誰だって、固有であり、スペシャルであり、プライスレスである。それを前提としつつ、やっぱり人ってたくさんいるし、似たようなことを考えている人はいる。そもそも生物である以上「食う・寝る・遊ぶ」といった生活形態は一緒だ。
実践としてオンリーワンを目指すのは難しい。

そして、ゴミの分別って大事ですよね。僕はあんまりできてなくて、反省するところが多々あるんですけれど。どの市、どの町だって同じように大事でしょう。もちろんフジはイベントですから、半端ない量のゴミが排出されます。そういう条件の違いはあれど、ゴミの分別ってどの場所においても普遍的に大事なプラクティスであるよね。
そして「普遍的」であることは「ヒップ」であることとは違う。フジが今でも若者の間でヒップなのかどうか、よくわからないけれど。
フジにおけるゴミの分別に「ヒップ」な価値を見出しているのであれば、たぶん、そこにとどまり続けることはできない。だってそれはゴミの分別だもの。


そういえば昔「環境問題」っていう問題があるような錯覚を抱いていた。よく考えもせず、形而上学的な環境問題っていう問題があるのだと。本当に錯覚だ。仔細に見れば「ゴミの分別」をはじめ、よく知る手触りの話であることがほとんどです。
炎天下の中、悪臭漂うゴミ箱付近で必死に分別の声掛けに勤しんでいた彼らのことだから、気がついていると思う。現場に近づくほど、汗まみれで臭い仕事が多い。

ヒップたろうとする感覚と、実務の違いこそ大事なのではないかと思うのです。
何回も繰り返すけれど、そのプラクティスはヒップではなく、どちらかと言えば陳腐です。そしてそのプラクティスはとても大事なものです。清掃員のおっさんはとても立派な仕事をしているけれど、彼らがいつも決意に満ち満ちて仕事をしているわけではない。

同じ実践を「決意」によって差異化できるかといえば、たぶんできない。
あくまで、場所が隔てている。



もうひとつとして、「決意」は息が詰まるのよ。やっぱ。根が怠惰なので。
こんな風に問おう。「世界は、決意でできている」という言葉は、彼ら自身の決意を示しているのか。それとも我々参集した人たちに決意を問うているのか。
たぶん両方なのだろう。そう思う。
「5年間で世界を変えよう」(@マイケル・ジャクソン)的な世界感を感じて、僕は好きです。"This is it"の最後、リハーサルが終わってバンドメンバーやダンサーたちと円陣を組んで、マイケルはそう言うんです。

このセリフが輝く理由は、言ったマイケルご本人がピーターパンみたいな人だったことのほかに、この"This is it"が、未だに(というか永遠に)「未完成のプロジェクト」だから、でしょう。
もしマイケルが存命で"This is it ツアー"が予定どおり敢行されていれば、「プロジェクト」の帰結は、誰の目にも明らかだったはず。

着陸しない物語。だから「単なるリハーサル映像」でしかないはずのあの映画は、特別な作品となった。希望に満ち溢れ、不思議な高揚感の中で離陸し、観衆たる僕らは小さくなっていく飛行機に手を振り、物語は終わる。
彼の「決意」は、ふわりと中に舞い、どこかに消えてしまった。
そしてたぶん、これでよかった。

あなたが決意することで、たしかにあなたは変わるかもしれない。でも「僕が変わる」かどうかはわからない。あなたがどんなに、僕に変わって欲しいと願っていても。
そして仮に、あなたの願いに反して僕が変わらなかったとして、それでもあなたは落ち込んだりしないで欲しいな。
もし「僕が変わること」に、あなたの決意を賭けているのだとしたら、それはいささかズルやり方だし、その決意を挫く存在として僕が立ち上がってしまうかもしれない。
本来「僕が変わる」のに必要なのは、説得、理解、納得といった別の方法であって、あなたの決意ではない。ないまぜになりがちだけれど、そこは分けて考えよう。
そうしないと、決意の「代償」があなた側に向いてしまうかもしれない。



そして、そう。決意は身を焦がすものでもあるよね。

決意したりヒップでありつづけるには、努力と潔斎が必要だと思います。一方で人生はけっこう長い。怠惰な僕としては、決意を掲げて生き続けるほどスタミナはない。たらりんたらりん、と生きていきたいものであります。
潔斎はこの際、お坊さんにお任せする。
そんな僕であるから、決意を高く掲げれば掲げる様を拝見するほど、不安になるのです。いま、あなたの二の腕はけっこうプルプルしてないか、と。

なんと、フジで"閃光少女"やらなかったのか。
 
この歌詞に心が震えないやつなどいるのか。

少女は閃光となり、「今」を焼き付ける。「またとない」命を使い切って。
ここで歌われないことは、その輝きの代償。
快調ではない明日、消し炭みたいに生きるかもしれない明日のこと。

そもそも椎名林檎ねいさんは僕よりもいっこ上だけれど、未だに満天下に水着姿を披露できるないすばでーをお持ちで、それは決意によるものもあるでしょうが、けっこうしたたかにやっているからだと思うんです。
"だってカートみたいだから あたしはコートニーじゃない, don't you think?"と歌ってから15年。その健在っぷりはご案内の通りです。たしかに彼女は昔、閃光少女だったかもしれないけれど、消し炭どころかまったくグレイトな地平を20年近く歩んでいる。


一番ダメなのは、掲げた決意をなかったことにしたり、身体や心を壊して決意から遠ざかることだと思うんです。どう考えたってそんなの不本意でしょ。そのとき決意やそのときのあなたに失礼じゃないですか。
疲れたら腕は下ろしたらいい。おばあちゃん的視線でそんなことを言ってみる。


したたかに、たおやかに。
おっさんからのお願いです。
来年もよろしくおねがいします。