2014年11月22日土曜日

書評:音楽嗜好症〜脳神経科医と音楽に憑かれた人々〜

あーおれのはなしだ、と思った。
「いつか買う」と息巻いて、2,700円という金額にへこたれて手が伸びませんでした。
晴れて文庫版が出ましたので購入。ああうれしい。文庫本でも1,080円(税抜)。

音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
オリヴァー・サックス
早川書房
売り上げランキング: 64,068


そして全然話は違うんだけれど、みなさまにおかれましては既にMr.Bigの新譜を手にされ、数百万回は繰り返し聴かれたことでしょう。どうもお疲れ様です。

・・・ザ・ストーリーズ・ウイ・クッド・テル(DVD付)
MR.BIG
WOWOWエンタテインメント (2014-09-24)
売り上げランキング: 1,896

Amazonさんのレビューを拝見いたしますと、まさに甲論乙駁といった風情で、割れとるね。ファン歴20周年の聴後感としては、けっこう残念な出来であった。そう認めざるをえない。グルーヴが失われてしまった気がして。
そんな話をキヨシ先輩と飲みながらして。グルーヴだよグルーヴ。ははあー、なるほど。
…グルーヴって何だよ?




音楽はどこまで行っても「個人的な経験」でしかない。
同じものを聴いていても、解釈するのは各々の身体の内側で起こる「経験」だからだ。僕が聴き、解釈したものと隣の人の解釈は同じかどうかわからない。つーか、違うだろう。
あるいはアウトプットの問題。僕がブログでつぶやく音楽に関する言葉は、僕の聴いた音楽・風景を十全に言い表せない。どんなに頑張っても、言葉はいつも足りない。
そんなことがある。


やっと本の話。
『音楽嗜好症』はオリヴァー・サックスの作。『レナードの朝』の作者、脳神経科のお医者さんの作品。タイトルは知ってた。でもまだ映画をみたことなかったんで、ついでに見ました。
著者は職業柄、いろんな患者さんと出会うわけなんだけれど、「音楽」という側面で切り取ったさまざまな症例について紹介されるのが本書。音楽を軸にとっても、実に多彩な症状がある。
突然音楽が好きになってしまった人、嫌いになってしまった人、うるさいくらいの音楽幻聴、特定の音楽で発作を起こす人、音に色をみる人(共感覚)、絶対音感、音楽を演奏している間は不思議とパーキンソニズムによる震えが止まる人、などなど。

これらの症状は、脳の機能を深く結びついていることをオリヴァー先生は繰り返し説く。なんたって脳みその先生ですから。
例えば、事故や病気で脳にダメージを受ける。そして、患者自身の「何か」が変わってしまう。
こうした「ディスオーダー」の見本市をパラパラと捲ることで、僕らが普段どんな風に音楽を認知しているか(そして楽しんでいるのか)を傍証的に考察する。ブラックボックスの中身を手触りで想像するように、不可解極まりない「脳」という器官のもつ機能について思いを巡らせる。
むしろ「ディスオーダーの探求」なしに、音楽という魔法が人の身体に及ぼす不思議な作用について、僕らは知る手立てはない。たぶんそうなのだ。
「患者」はアクシデントで今まで持っていた何かを失ったり、手に入れる。違和感があるから病院に行くわけで。生まれ持った能力であれば、違和感なんかない。だからオリヴァー先生は共感覚の持ち主はけっこう多いんじゃないか、本人が気がついてないだけで、なんてことを云う。
音に色があるなんてあたりまえじゃない。そんな人がけっこう身近にいたりして。


数々の興味深い症例については1,080円払って読んでもらったほうがいい。印象に残った話を一つ。病気によって長期記憶が失われた人の話。7秒くらいの意識しか持てなくなった人。彼は7秒に一度「生まれ変わる」。もしくは「目覚める」。その瞬間瞬間の意識しかない。
ところが、彼はピアノで曲を演奏することができる。もちろん7秒以上に長い楽曲を。どういうことなのか。オリヴァーに言わせると「エピソード記憶は失われている。しかし手続き記憶は残っている」ということらしい。

僕、これわかりますよ。

ここで紹介するのは長岡市立深沢小学校校歌、の歌い出し。えへん。
しーぶみーがわーのみずほーとりではー ばーんけーのびーでんーみーねーこーえーて
現代語に訳しますと、
渋海川の水 辺りでは 万景の美田 峰越えて
ですね。
字面のとおり「おらが郷」の美しさを全力で祝いでいます。しかし格調の高さ、小学生には厳しいですよ。
創立140周年越えだそうで、おめでとうございます。おかしいな、僕が通ってたころは120周年だったはずなのに。
ちなみに3番の最後は「誉れを上げん、国のため」と雄々しく謳われるのです。圧巻です。卒業後、そのまま出征させられそうな力強さを感じます。

でだ、
上が「手続き記憶」:僕が(意味もわからずに)歌って練習して覚えた記憶。
下が「エピソード記憶」:頭でっかちになった後年、知った意味。
でしょう。たぶん。
そしてこの歌、数十年後、僕が認知症になったとしても、やっぱり歌えるんでしょうね。いやきっと歌えるはずです。この歌は僕の中に「手続き記憶」でインストールされているから。
歌うときには言葉の意味なんて考えないものね。ばんけーです。ばんけー。


オリヴァーは本書の中で、音楽学者のヴィクトル・ツカーカンドルという人の著書を引いていて、その言葉がとっても素敵だったのでここで孫引きさせて頂きます。
メロディを聞くとは、聞く、聞こえた、聞こうとしている、のすべてが同時に起こることだ。どんなメロディも「過去は思い出さなくてもそこにあり、未来は予想しなくてもそこにある」と宣言している。 p301
あきれた。
なんとメロディは、時間すら超越してしまうのだ。




 
映画も控えているようで。みてみよう。


オリヴァーは症例について様々な考察をめぐらせつつも、懐疑的な態度を手放さない。こういう風に見える、でもその理解でよいのだろうか。なにぶんヒトの、しかも脳みその話なので、再現実験なんて難しい。
ただし、こうであってほしい。そんな願いを持ちあわせいるような口ぶりが印象的。科学者的にどうなんだ、という話もありそうだけれど、その態度は、『レナードの朝』のセイヤー医師と重なる。ご当人がモデルなんだから当たり前なんだけれど。医は仁術ですからね。
豊富かつバラエティに富んだケーススタディ。そしてオリヴァー自身の学究肌で、本当のところ患者に親身な姿勢が、本書を好著たらしめているのだろう。



そして話は冒頭のMr.BIGに戻るのだった。
グルーヴが、と僕が思ってしまうのは、本作のドラム・パートがプログラミングであることと無縁ではない。ドラマーのパット・トーピーはパーキンソン病を発症し、今作よりドラムの演奏をギブアップした。


選曲それかよ、という指摘はあれど、爽やか男前なので許してあげて下さい。

96年。Heymanツアーのブドーカン。僕もいたと思うんだ。

パットはパワー・ヒッター、ジャストなタイミングのドラマー。そんな印象。ビリー・シーンとポール・ギルバートを擁した、強力極まるリズム・セクションが、融通無碍に転がすハード・ロック。僕が「グルーヴ」と呼ぶものは、それを指しているのか。

パットはドラムを叩かない。でも脱退しないし、バンドも解散しない。そんなアナウンスが流れた中でのレコードだったから、"…The story we could tell"というレコード・タイトルにシリアスなニュアンスを嗅ぎとってしまう。つまり、これが彼らの「今話すことのできる物語」である、と。

『レナードの朝』のサックス先生、ではなくて、セイヤー先生を演じたロビン・ウイリアムズもパーキンソンを患っていた。彼の悲報からしばらくして、このニュースを耳にした。
今まで出来ていたことが徐々できなくなるのは、とてつもなく恐ろしい。自らの高い技術で売ってきたミュージシャンや俳優であればなおさら、なのだろう。
現在のパットはといえば、ニコニコしてハーモニーをつけつつ、時折タンバリンを叩く。ずいぶん痩せてしまった。その心中、ちょっと想像がつかない。


Mr.Big+野球なのに見逃した。この俺が。痛恨。テレビがないせいで。
ただね、

こんな風に仲間とハーモニーが歌えたら、それは掛け値なしに素敵なことだ。

ドラムを叩いている間は、治らないにしても震えが止まるかもしれないとか。本書にはそんな事例もあった。だけれどもそんな浅薄な希望よりも、もっと大きくて根源的な希望が、わりとすぐ近くにあるのではないか。というか、すでに彼らは手にしているのではないか。

「メロディは既にそこにあり、これからもそこにある」のだ。
ひょうひょうと歌うパットは、まったく聡明な人なのだろう。