2015年11月3日火曜日

書評 補いあう一人と一匹:『子犬に脳を盗まれた!不思議な共生関係の謎』

いぬの話。
犬が脳を食べるという話ではないし、子犬に心を奪われた、という話でもないのです。

子犬に脳を盗まれた!  不思議な共生関係の謎
ジョン・フランクリン
青土社



僕は犬を飼ったことがない。文鳥しか飼ったことがない。
とはいえ、犬がなかなかかわゆい生き物であることは知っている。

7年ぶりに本土に居を移し、ずいぶんいろんな人が犬を散歩に連れ出しているのを見かける。
きれいにトリミングされて、ふわふわの毛をなびかせて、興味のままに走りだし、思い出したように飼い主の顔をうかがう。
…犬は、人の顔色を見るよな。



いぬねこは好きなので、関係記事をかなりの頻度でクリックする。最近多い。

あさのいにお デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション③
今回は犬の話ですが。

クリックする度に、ひろしくんみたいな人に課金していると思うと少し悔しい。
この種の記事は、いぬねこを擬人化してしまいがちだ。読むたびに少し、居心地が悪い気分になる。
以前の僕は、この種の基準に厳しかった。他人の考えすらわからないのに、いぬの気持ちなんか代弁できるわけないだろう。日常会話ですら、こうした擬人化は一切しないように心がけていたこともある。
徐々にやめてしまったのは、めんどくさくなったこともあるけれども、彼らは思いのほか我々に近い、そんな風に思うフシが多々あったからだ。

こんな記事。
実際のところ犬は人間のことをどう思っているんだろう。脳スキャンで明らかになった本音は「それでも人間を愛している」(各国研究) カラパイア

そう。犬は人の目を見る。そうなのだ。
「それでも人間を愛している」という言葉にはっとした。「それでも」という言葉は、本文にも英語の原文にもない。たぶん訳者が付け足したのだろう。

付け足された、「それでも」の意味を、僕は考える。




なにが僕の中に眠るいぬねこずきを加速させたか。まちがいなくベトナムと関係がある。あの国は、野ざらしの犬どもが足元に溢れかえっていた。

ベトナム犬は概して愛想がない。世間ずれしている。それでも好奇心は旺盛で、目的をもっている。ベトナム犬たちは常にどこかへのおつかいの途中なのだ。
もちろん、ちょっとおつかいを中断して、胡乱な外国人に撫でられてもいいか、という犬もすくなからずいる。



それにしても、と思うのだ。

君らはな、あまりにも、警戒心がなさすぎる。
ぴこぴこと、しっぽふりふり寄ってきて、まっすぐに僕の目を見つめる。
初対面だぞ。



本書は犬と人との関係について語られた本だ。
なぜ犬は人とこんなにも親しい間柄なのか。単なる家畜との関係を越えたこの理由を、筆者のジョン・フランクリンは考える。きっかけはガールフレンドとの結婚の条件が犬を飼うことだった、というくらいだから、根っからの犬好きだったわけではないのかもしれない。
ジャーナリストであるフランクリンが心を惹かれたのは、たまたま手にとった数千年前の化石の写真。人間と子犬(の祖先)が埋葬されたもの。
化石となった人は、一緒に埋葬された子犬に手を伸ばすのように、身体を横たえている。
いつから犬は、人と共にあるようになったのか。そんなことを考える。そして、内心煩わしく思いながらも、彼は一匹の天真爛漫な同居者を迎え入れる。

犬は狼から分離した。
それは広く知られている。でも、犬と狼はけっこう違う。たとえば人に対する距離感。なぜ我々の身近にいるものが狼ではなくて犬だったのだろう。
彼は文献を読み、研究者にインタビューし、チャーリーを撫でつつ、探求していく。

フランクリンは犬に関する研究、研究費の少なさを指摘する。こんなにも身近な生き物なのに。フランクリンは、「擬人化」と関連して、この理由を考察している。
研究者は実験対象に客観的でなくてはいけない。物理学とか天文学とか、実際にも心理的にも人から離れている分野は研究が進む。
一方で、生物学は難しい。感情移入や擬人化を避けなければいけないところが、生物を相手にする研究のポイントであったわけだ。そうすると、人に最も近い犬はもっとも難しい。
かつての実験動物への扱いは確かにひどかった。農学部的なことをいえば家畜に施される「耳刻」とかね。
近年盛んになっている動物愛護や権利運動、果てはネットに見る過度な擬人化は、客観性に拘泥しすぎた「科学的態度」からの揺り戻しとみることもできるのかも。そんなことを考える。


フランクリンは相棒のチャーリーと森を散歩する。チャーリーは気の向くままに森を歩く。新たな発見をして、その驚きとその喜びをフランクリンに伝える。病院でボランティアも務める。患者は笑顔を取り戻し、体調だって回復する。
フランクリンは驚く。犬は優れたカウンセラー、というよりも、人の心というサーバーに直接接続している、周辺機器みたいじゃないか。そう思いはじめる。

そしてある日、チャーリーをなくす。
フランクリンの心に、ぽっかりと穴があく。


化石は当時の生活については語るが、人と犬が一緒になった理由までは語らない。だからフランクリンは推論を重ねていく。説明可能で、今のところ反証が思いつかない、説得力のある仮説を。
彼はピューリッツァー賞の受賞歴もあるジャーナリスト。読者をわくわくさせるような優れた文章の書き手だ。
そして、この本は彼のパーソナルな経験が含まれる。彼自身の遍歴や、思考。もちろんチャーリーとの生活について。だから、彼自身が思索の森を歩んでいるところに、読者たる僕が付き合うような感覚がある。その意味で、普通のレポルタージュとは少し趣きが異なる。
結論に向かって一直線に歩むような本ではなくて、寄り道したり、立ち止まったり、後ろを振り返ったり。難解なところはないけれど、彼の歩むペースを感じる文章だ。

フランクリンが見出した仮説はずいぶん魅力的で、本書の醍醐味にあたる部分なので、ここでは触れない。気になったいぬ好きさんたちは一度本書をお手にとって確認してほしい。
彼の説に基づけば、人と犬は必要に迫られて「共生」した。そしてその延長線上に、現在の人と犬の関係がある。



友人を2匹ほど紹介しつつ、人と犬との関係について考えてみたい。
たろとまろだ。
 

左:たろ 会社犬。おばか。あそび好き。苗床を掘り返しては怒られる。気を抜くとおなかを出す。
右:まろ 共産党員。賢く忠実でさみしがりや。一時期うちのゲートキーパーを務める。病気になってしまって、お見舞いに秘蔵のコンビーフを持参した。

ね。こういうのを擬人化というんです。

過ごすうちに彼らのパーソナリティが分かってくる。うちの裏にワニがいたんですけど、彼らのパーソナリティは僕にはわからない。早い話、一脈通ずるところがあるかないか。そんなところでしかない。
僕が犬を猫かわいがりする。周囲のベトナム人は一定の理解は示すものの、ちょっと違和感を持っている。この国では、そんな風に犬は扱われない。
鼠食・犬食・モラリズム
かといって、ぜんぜん可愛くないのか、というとそうでもないようだ。
食料兼愛玩動物という位置づけは、日本では(たぶんこの本を書いたフランクリンだって)あんまり考えられない。でも、ベトナムという国では、それが当然のことでありさえする。


人と犬の共生。その過程で、どうしたことか、人は10%、犬は20%の質量の脳を失ったという。
ジョンの仮説はこうだ。人と犬の取引の結果、お互いの脳が減った。これは必ずしも退化を意味しない。お互いをカウンターパートとし、相手に脳みそを預けることで、自分の得意分野に集中することができた。
"犬が人間に何を託したかはわかっていた。知性と抜け目のなさだ。だが、人間は犬に何を託したのだろうか。
答えはさほど難しくない。ひと言で言えば、犬は深い感情の過去のあずかり手だった。僕らの感情の盲導犬だった。" p305

「サーバーと周辺機器」の例えは的を射ていると思うんだ。

※砂場に見えますが、苗床です。

犬が好奇心旺盛で、無邪気であること。それは、人が脳みそを進化させる過程で置いてきてしまった(あるいは、閉じ込めてしまった)豊かな感情を補完するもの。かもしれない。


ひっそりゲートキープされると、開けるときびっくりするんです。

犬の優しさだって同じだ。人は、犬のように他者に対して忠実にはなれないし、まっすぐに優しさを受け止めることができない。かもしれない。(優しくされると気味が悪い、とか実に人間的な感情だ)。


犬を「警戒心がなさすぎる」と思う僕はほんとうのところ、ちょっとうらやましいのだ。その無邪気さが。今では出すことすらできない自分自身の無邪気さを投影する。はは、あいつはいいなあ、バカで、って。
でもさ。それはまるで、僕の形代ではないか。なんだかちょっと哀れではないか。僕がね。
犬は、人が持ち得なくなってしまった好奇心を発散し、人が泣けなくなったもののために寄り添うのだ。


その意味で犬は確かに人の一部であり、僕らが手を(足を)取り合って生きていく、充分すぎる理由になるだろう。
こんな風だっていえる。どんな犬だって「初対面」ではない。
なぜなら彼らはずっと昔から、僕らの一部なのだから。