2012年1月29日日曜日

だらだらと本を読みつつ、気候変動のことを少し考える

「二酸化炭素 温暖化説の崩壊」広瀬隆, 集英社新書, 2010
またこういうものを手慰みに買ってしまう。お金ないのに。
おお、と思って買ったら割と2年前の本だった。日本は書籍が多すぎる。
くやしい。でも楽しい。


概要はIPCC報告書にまつわるスキャンダルから始まり、温暖化懐疑論に行き着く流れ。この前そんな日記も書いたから、興をそそる内容ではある。地球史における、間氷期ー氷期のサイクルと温室効果ガスとの関係について、資料をもとにして割と丁寧に書いてあると思う。むしろ世界は寒冷化する、ということを言う人もずいぶんいるからね。

加えて本書では都市部で問題になっているヒートアイランド現象に着目し、温暖化現象よりも都市による廃熱の問題の方が問題が大きいことを述べている。
これと関連して、原発による廃熱の問題にも触れて、原子力発電という方法論とそのスキームに対して疑問を投げかけている。3.11以降の今では普通に受け入れられる議論だが、それ以前に切り込んでいることは筆者の先見であろう。

筆者は「温暖化」という言葉を盛んに使っていて、これは日本では普通のことであるが、海外で通りがよいのは"groval warming"ではなく"climate exchange"じゃねえの、と思うんだが。
理由は二酸化炭素が引き起こすとされているのは一義的には温室効果だが、世界的には寒冷化すると云われている地域もあるため。根拠条約も「気候変動枠組条約」だ。気温上昇スキームの疑義のみが取り上げられているのは、温暖化が亢進する地域に僕らが住んでいるからだ。その辺は留意しておいたほうがいいのかも。

本書ではIPCC報告書にねつ造データが含まれており、実際には温暖化などしていないと述べられている。筆者の主張は、言っている内容については理解できる。いまのところ、僕は正誤を判定する材料を持ち合わせていない。なのでウソかホントかという話はしない。
だからいわゆる温室効果ガスがどれほど、気候変動に(別に温暖化でもいいけれど)寄与しているのかを正しく知りたい。温室効果の最大要因は二酸化炭素ではなく、水蒸気であることは同意してもいい。ではその他の温室効果ガスの寄与率はどれくらいか、が大事だ。完全に捨象できる程度のものなのかどうか。
温暖化懐疑論はずっと言われ続けていて、根強く目にする気がするんだけれど、あんまりまっとうな反論を見たことがない。痛いとこ突かれてるからなのか、論評に価しないからか。環境NGOがこのあたりを調査してくれると、とても面白いと思います。だれかみてたらお願いします。


IPCC(気候変動における政府間パネル)報告書がウソをついている、はいいとして、現在のところは、条約締約国は気候変動をリスクとして認め、IPCCの報告書を承認しているわけだ。
この条約の大事なところは「予防原則」に基づいて行動するということだ。予防原則とは不確実性を「込み」にして考えること、その姿勢。従って、当初想定していたリスクよりも調査の過程で少なくなったといえば、それはそれでいいことだ。思っていたより小さなリスクであった、とすれば幸甚以外の何だろう。誰もチキン野郎などと言わないので安心していい。
逆に言えば、リスク評価が揺れている状況であれば、僕は予防原則の観点から気候変動条約を支持する。どちらにしても、正しいデータがあること、あるいはデータの精度があがっていくことを期待している。
なので、ふーむ、と唸っておくのが今のところの僕としての結論となる。
チキン野郎として、我ながら正しい態度だと思う。

条約は条約であって、国が国是として調印しているわけだ。その看板を国民自身が降ろすことだってもちろんできる。だから、IPCCの内容を承認しなくてもいいし、条約を脱退したっていい。内容に不明があれば、看板を降ろすように働きかければいい。まずまず、そんなところだろうと思う。今回ばかりは過大設計だって会計検査院もきっと許してくれるだろう。条約は国内法より上位だもの。


この手の文章でいつも気になるのが、書き方に関すること。僕はこの人の文章が好きではない。読み通すのに苦労した。

陰謀説みたいな議論はセンセーショナルだけれど、議論の土俵そのものを破壊してしまう気がする。「IPCCの学者はまともではない」というのであれば、指をくわえていた学者だってまともじゃないだろう。そんなことを書いてしまうジャーナリストはどうなんだ。
大切なはずの議論が「金に目がくらんだ不機嫌な人間同士の罵り合い」に堕落していくような感触がある。最初に議論したかったことが、手垢にまみれていく風景は、個人的には嫌いだ。


浅田次郎は壬生義士伝で斉藤一に「人間など所詮は糞袋」と言わせている。ほほう、と思った。なるほど違いないだろう。ではそのクソブクロが何を言うのか、というところが大切なわけで、浅田次郎的斉藤一的クソブクロが語った言葉はこの小説にはっとする鮮やかさを与えている。

エビデンスを元に話合うのが科学的態度だと思うけれど、僕は相手を説得する姿勢も大切だと信じます。世の中バカばっか、で終わっている、不機嫌なジャーナリストや学者は好きではないのです。
結局そういう人は何も変えたくないんでしょ。今のルールで人をバカにして嘲り笑っていることで利益を得ているんでしょ。ってね。

2012年1月2日月曜日

そしてほとんど本は読まなかった

じっくり読むべき本を後回しにしているせいだ。
ところで僕はなぜ「パンセ」なんかベトナムに持ってきたのか。

印象に残った本。強いて挙げるなら、「思想地図β」東浩紀 編, contectures, 2011 。発刊時にはすでにベトナムにいたので、都合4ヶ月くらい後に僕の手元に届いた。東浩紀の巻頭言にドキドキ。
"震災でぼくたちはばらばらになってしまった。それは、意味を失い、物語を失い、確率的な存在に変えられてしまったということだ"
和合亮一の詩に顔をしかめ、家長をめぐる鼎談に説得されたような、やっぱりよくわかんないような気持ちになり、津田大介のレポルタージュや案出された藤村龍至の復興計画βに読み入った。


去年はこんな音楽を聴いていたな


こういうのはだいたい3月末にやるのが習いだった。
社会人は年度ですから。なんちゃって国際人としては年でまとめてみる。
すでに12年になっていますが。あ、あけましておめでとうございます。
ベトナムにいるんだから旧暦でやるべきなのかもしれない。
だとしたらちょうどいいタイミングだ。

とはいっても、11年はあまり新しい音楽に触れない一年になった。
理由は、簡単にレコードショップに行ける環境ではなくなったということとか、
音楽雑誌を買わなくなった(買えなくなった)こととか、
ライブに行かなくなった(行けなくなった)こととか。
もはや僕はヒップではない。それは仕方がない。まあ、いいや。
気になったものをいくつか。




"Odd Soul" Mutemath
とてもかっこいす。ライブみたいす。
2年前のフジで見たような気がするんだけど、気のせいかもしれない。
とても上手な人たちなのでメロディに寄りかかる事無く、クール。
リフはZepっぽくて70’sリバイバルの一部に聞こえなくもないけれど、
ダンスミュージックを通過したあと、という感じがするな。
90年代にティーンズとして70’sリバイバルを体感した人間としては。
バンドのキモはドラムスで、跳ね回るリズムが痛快。
シンプルなセッティングで、より70'sを強く想起させる。
レコードを重ねるごとに曲が練られていく印象。

それにしてもドラムのおっさん、ハンパなくうまい。
レコード一枚を通じて、ドラムの音色・聴かせ方をすごく考えいるんだろうな、
と思いながら聴いた。
帰国したらライブ行きたいの。そう、今ライブに行きたいの。オレ。





"What if..."Mr.Big 
2010年の作品ですが。。
Paul Gilbertのギターの方が、線の細いRichie Kotzenのギターより合っている。
しっかりとしたリフがレコードの骨格をしっかり形作っている。
Billy Sheehanの踊るベース。ギターとベースの立ち位置が逆みたいだ。
オーセンティックなハードロックを鳴らせる人たちは、今はあんまりいない。
最近の若者のような、派手さとかパンチが効いているわけではないけれど、
このグルーヴ感とテンションの高さは気持ちいい。職人芸。
あと、多分Billyのペンだと思うんだけど(クレジットがなかった)、
"Stranger in my life"みたいなEricの声が映えるバラードが嬉しかった。



一方のRichie Kotzenも"24 hours"は枯れて艶のあるトーンのギターと
あの渋い歌声が印象的だった。Mr.Bigと方向性はそんなに遠くはないのに
うまくいかなかったのが不思議。
黒っぽい、ソウルフルな声のブルースロック。


Richieは本職がギタリストなくせに、
あんまりギターの効用を信じていないんじゃないか、と聴きながら考える。
歌うような素敵なソロを弾くから、そんなこともないのかもしれない。
なんとなく、プレイヤーというよりコンポーザー、というか。
だから、レコードのテンションとしては、個性的なプレイヤーによる
インタープレイの応酬が聴ける(そして人間関係的にも緊張感がある)
Mr.Bigのレコードの方が上だ。
今のRichieはMr.Big在籍時より伸びやかだと思う。素敵なレコード。


その他、ロックとしては"sheeptown ALASCA"tasica、"革命"Andymoriなど。
ああ、Radioheadって2011だったのか。あんまりでした。







"James Blake" James Blake 
今年一番印象に残った一枚。
ダブステップとか、僕にはよく分からないけれど。
声を隠すもの≒リズムの後ろ側の声、として、とりあえず受け取ってみた。
そしてその場所の居心地はけっこういいんだろうな、と想像してみた。
リズムの後ろ側に配された声は、音楽の一番外側で優しく包みこむ役回りだ。
そして突然、声が真ん中に現れたときに、ああ、とその存在を思い出す。

あるいは、声をプリズムに透かしてみる風景を想像する。
透明で冷たく、澄み切った声は、プリズムを介していくつかの要素に分解される。
分解された声は、それぞれに鮮やかな色を帯び、冷たい大地から開放される。
中空に放たれた声たちは、分かたれた自分の欠片を呼び合う。

いつしか声たちはまたひとつにもどる。元の冷たい大地に。
でも、最初より少しだけ、暖かみのある色になったみだいだ。
なんだか、まるで何かを祈るよう。

教えてくれた人も含めて、とても大切なレコードになるんだと思う。





"Niyodo"高木正勝
順調にエレクトロニカから離脱し。今年は2枚もレコードが出て嬉しかった。
"Tama Tama"の方が背筋がしゃんとする端正なピアノが耳を引き、
いつまでたっても背筋がしゃんとしない僕としては好みのレコードなんだけど、
今回はこちらにした。

Kazekogiはなんというか、童謡のような一曲。
聞いていると、そうそう、子どもの頃ってこんな感じだったよなぁ、と
妙に幼少のころを思い出してみたり。
そういうことっていうのは、今まで殆どなかったから、
なんだか不思議な気持ちにさせられるレコードだった。
ベトナムにいるから、郷里が恋しくなるのだろうか。

子どもの頃を思い出すことは、僕にとってなんというか、
思い出したくないような、気恥ずかしいような気持ちになる作業だ。
理由はよく分からない。だぶん高校生が中学時代を振り返るのが
イヤなのの延長みたいなものなんだろうな。
中二病的高二病的大二病的院二病的社二病な、社会人7年生。
まあ、今は絶賛ピットイン中だけどな。

ただ、こうやって改めて童謡のような曲ー子どもの声を聴くと
クラスで友だちと歌を歌っていたのを想い出す。ピアノに座る先生の顔も。
うん。あのときは、なかなかいっしょうけんめい歌ってたじゃないか。

子どもが音程がわからなくなって、あいまいに歌うところとか、
それを先生が導いている感じとか、とてもかわいらしい、と思える僕は、
いくらか過去を客観的にみることができるようになったとも言え、
昔よりも少しだけ、大人になったのかもしれない。

ああ、エレクトロニカとしては、"s(o)un(d)beam"Salyu × Salyuとか
とても面白かった。Salyuの声はとても好きだな、と思った。




こんな感じかなぁ。今年も素敵な音楽にたくさん出会えますように。