2012年3月25日日曜日

中にいること/外にいること



ホーチミンにいた時に、ベトナム人家族の家に遊びにいく機会があった。
入るとレンガ(コンクリート)の家。冬にずいぶん底冷えしそうにも思えるけれど、その心配はない。常夏だから。
大きな窓をつくって開け放ち、風を入れる。ベランダにはプランターをおいて緑を。窓とベランダがなければ、きっと殺風景な住まいだ。窓は開放してしまうので、外のようになる。アリだって入ってくる。開放しているコンクリートの家はひやりとしていて、涼しい。


カマウの家は所得によって違う。お金持ちはやっぱりレンガとコンクリートを使った家。お金持ちの家は玄関入ってすぐ居間で、たいていは高そうな応接セットがおいてある。入り口は2間くらいあって、つまりはだいたい外だ。採光性云々を言うよりも、ここは外、といったほうが早い。間口にドアはなくて、代わりにアコーディオンカーテン見たいなもので仕切る。まあ、長期不在にでもしない限り開いている。玄関入ると、まあお茶でも飲め、となる。

貧しい、というか標準的な家は玄関の横に縁台がある。ふだんは人はそこにいて、日の高いうちは家の中にあまりいない。暑いし暗いから。
家の骨組みはメラルーカなどの木材を使い、壁や屋根はニッパヤシやバナナの葉をつかって葺く。こちらは間口が狭く、普通のドアがある。家の中はたいていは土間で、寝るためのベッドとハンモックが吊るしてある。採光性が悪くとても暗い。レジャーシートやブルーシートを多用しているのが興味深い。永久構造物ですが何か。
縁台にいるおっちゃんに見つかると、まあ茶でも飲め、となる。

どちらにも言えるのは、外もしくは外みたいな場所で多くの時間を過ごしていること。茶を飲むこと。そして蚊に刺されること。
日本の家のありようとは、ずいぶん違うよなぁ、と考える。


地理学者、でいいのだろうか、のイーフートゥアンは、こんなことを言う。

「自分の家というものは夏よりも冬の方がより親密な感じがする。冬は、われわれのかよわさを思い知らせ、自分の家を避難所として規定する季節だからである。それに対して、夏は世界全体を楽園に変える。その結果、夏は人間はどこにいても同じように保護されていることになるのである。」(『空間の経験』イーフートゥアン,筑摩書房,1993,p241)

なかなかうまいことを言う。
ここ常夏の場所であるから、さしずめ永続的に続く楽園だ。世界全体に愛されているから、敢えて家の中に閉じこもる必要はない、ということか。
そんなわけで、ここの人々は外、あるいは外みたいな場所で人生の多くの時間を過ごすんだろうな。


普段はそれでもいいよな、と思う。困ったのが病気になった時。常夏でも悪寒が止まらない、そんなときは誰だって暖かくてきれいな部屋で眠りたい。風邪かなんか引いたおじいさんに会った。パジャマで首にタオル。頭にもタオル。ああ、そよ風でもきっと寒いのだ、と気がつく。

家は風通しがいいし、家によってはハンモックしかない。身体にかける毛布なんてもちろんない。病気になった人が、落ち着いて身体を休めることが出来る場所というのは、そんなにない。
たしかに、身体が元気なときはこの場所は楽園かもしれない。夏は人を保護する。でも、ひとたび病を得たり、年老いた人にとってはずいぶんつらい場所だ。ここの夏はそのような人にそれほどやさしくないし、ここの家は日本ほど人を守らない。そんな違いもある。


寒い世界の、ふとんの暖かさとか、家に帰ってほっとする感触を少しだけ想像する。
あれはたぶんそこに住む人にしかわからない特別な感触。