学者さんたちが燃え上がる様を散見。ああ、そんな言い方をしてしまえば炎上必至ですよ、と思って眺めていた。まあ、燃えているのは学者さんだけではないか。
繰り返すひとは繰り返すし、発信の仕方・巧拙の問題でもないんだろうな、と思ったんですよね。当人にすれば、これ以外のあり方はないんだろう。
きっとそうなんだろう。
そう思って、ここに小さな藁人形をこさえてみる。
学者さんたちが燃え上がる様を散見。ああ、そんな言い方をしてしまえば炎上必至ですよ、と思って眺めていた。まあ、燃えているのは学者さんだけではないか。
繰り返すひとは繰り返すし、発信の仕方・巧拙の問題でもないんだろうな、と思ったんですよね。当人にすれば、これ以外のあり方はないんだろう。
きっとそうなんだろう。
そう思って、ここに小さな藁人形をこさえてみる。
気がついたらもう5月。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
「マネジメントシステムのひみつ」
https://kids.gakken.co.jp/himitsu/library224/
関係先から広報しろ、と言われたような気がしたので。
コミューンみたいですよね、と彼は云うんだ。たぶんいい意味で。
えー、と思いながら、そうかもしれない、と応える。
僕はやや不本意だった。でもうまい反駁も思いつかなかった。でもまあそう云われてみれば、それはたしかにこれはコミューンのようだった。
がっかりするのは自分だからな。そういうのって敗北主義なのかしら。
最近企業のCSR活動にお邪魔する機会も出てきて、なんだかもやっとしている。この種の活動は平たく言って、環境教育などとも呼ばれる。で、教育とはなんだろうと。
教育とはすべからく洗脳であるという話はちらほら目にしていて、それはまあそうだろうと思う。
朝岡先生。環境教育の。大学院のとき授業を取った。なんだか先生は「たとえばゴミ問題がやりたいんです」といって研究室に来る学生がいるんだけど、そういうことではないんだとおっしゃっていた。環境に配慮した主体を育成することが大事なんです。そう言っていたような気がする。なるほど。ではどうしたら環境配慮的主体が育成されるのか。そこは残念ながら忘却のかなた。大事なところなのに。まじめに授業を受けていればよかったですね。
でも環境配慮的な主体を洗脳して育成するっていうことなんだろうか。あるいは情操教育は?情操の豊かな主体を洗脳して育成するのかしら。なんだかそれって変じゃない?
書いていて気がついた。僕は「教育」が好きではないんだな。そうはいっても僕は子どもには僕なりのモラルを押し付けているような気がするし、パターナリスティック(実際父親ですからね)の誹りは免れないことも自覚している。
親「ごとき」が、教育者「ごとき」がその人を変えるという考え方・意思が、ひどく傲慢なものに感じられる。そういうことなのではないか。親としての僕は、子どもの振る舞いにひどくいらついていますけども。ときおり、ときおり。
不完全な者が未分化の者を教導する。せざるを得ない。それは「てめえだって半端者のくせしてなに偉そうなこといってんだ」的15の夜的感情と「でもにんげんだもの」的みつお的酌量の余地を求めるエクスキューズの感情のミクスチュアであり、つまりそれは僕だ。ああ僕だ。
誰かを教育してやろうとする人にはそれなりの思惑がある。大人ですから。育成して楽がしたかったり、やってます的社会貢献アピールだったり、購買意欲喚起だったり、予算消化だったり、暇つぶしであったり。あんまりそこで目くじらたててもしょうがない。僕も大人だし、おこぼれにあずかっているし。
たとえば、教育の目指す先が社会変革だとか、グローバル人材の育成だとか、なんだか地に足がつかないことを言い始めると、とたんに傲慢な感じがする。そういうてめーはどうなんだ、と思ってしまう。あーわかった。僕は「教育」が嫌いなんじゃない。「主体形成」が嫌いなんだ。ごめんなさい朝岡先生。投げたサイコロの行き先をコントロールしようとする企て。わかるよ。したいよね。でもお前だって不肖の息子・娘だっただろ?ということなのだろう。きっと。
ただ実際のところ、教育されている主体は勝手に「よいもの」を取捨選択しているはずなので大方、教育者が願う主体には形成されない。心配せずとも不肖の息子・娘は再生産される。
そのようにして教育者の野望は潰えるのだ。ざまみろ。とほほほほ。
将来のことを考えると環境配慮的な人を育成するのはまあ、たぶんそれほど悪いことではない。一般的に。平たく言って。では、あんまり傲慢にならず、そういうことをするにはどうしたらいいのか。
事実や知識の授受だけなのかもしれない。これはカエルです、これが白菜です、これが複素数です。もう少しあるな。社会的なコード。これはドの音です。様々な社会的なコードを示す。
そこから先はその人次第だ。君の好きなコードで楽しめばいい。
僕らが言えるのはそこまでなんじゃないのかな。
はやいなあ、と思う。
去年の今ごろはどうだったか。去年の来週に大きな仕事が入れられた。1年後、どうもそれはうまく実を結ばなかったようだ、と風聞に聞く。その仕事は前の職場であとに残そうとして取り組んだ仕事でもあった。うーんそうか。残念だったなと思う。
それでも世界は進んでいく。「自分の不在」とは、世間的、もっといえば会社的には全く大したことがなかった。そのごくあたりまえのことを改めて知った1年間でもあった。僕がだらだらと枝を折り、かまどに放り込みながら豆を煮ていても、世界は猛スピードで動いていく。
おかしいのは僕か世界か。そうは思うけれど、早いこと知れただけよかったかもしれない。僕だって1年前までは理不尽な理由で自分自身を、すごく悪い意味で調練していたかもしれない。「しょってる」と言われれればそれまでだけど、本人は字義通り背負ってるつもりになっている。そして事故に至るケースはままある。だから、僕の脱洗脳には少なくとも成功した。
それとしてスピードの差異を埋めるのは別の話だ。僕は遅すぎるのか、世界は早すぎるのか。
どんなに世界が早く動いても、僕の自我が激しく取り残されていたとしても仕方ないじゃないか。僕はあんな速度では動かない・働かないと決めた。だからこれは、望んだ弛緩であり、望んだ孤独なんだろう。
緩んでいる割に、なんだか気忙しいのがなんともかんとも。