2014年5月7日水曜日

書評:『寄生虫なき病』を読んで、ヨーグルトを食べはじめる

えっとですね。僕は物心ついたときからアトピー性皮膚炎で、増悪と寛解を繰り返しつつ30余年、過ごしています。もちろん大人になってからのほうが御しやすくなっています。子どもの頃の方がひどかった。掻くな、と云われてもな。痒みが身体の内側からじわりじわりと上がってくる感じ。ありゃぁ、子どもにはなかなか酷です。
いまだにひげ剃りがきらいです。剃った後は粉を吹く。カミソリで皮膚が削れている、というよりも肌がぼろぼろと崩れ落ちる、といったほうが適切な表現。

あるいは、ぎょう虫検査。おしりにぴたっとやるやつだ。現代の小学生にもまだ、ぎょう虫検査というものが存在しているのかしら。もうないのかしら。そんなことを考えていたらこんなニュース。
学校での座高測定とぎょう虫検査、来年度で廃止 01.05.2014 読売新聞
座高測定はマジいらねぇよ。誰得だよ。

そして、花粉症。なんちゃって職業林業者なんですが、最近目が痒い気がしています。これはまずい。山行ますから。不思議なことにベトナムでは一切出なかったんです。スギがないせいかもしれない。アレルゲンがないから感作を起こさない。これは筋が通っている。
しかしだね。そもそもスギは太古より日本にあったわけです。なんでここ数十年でスギ花粉症が劇的に増えているのか。戦後の行なわれた拡大造林のせいなのか。でもそれにしたってアレルゲンはずっとあったはずでしょう?
安易に悪者扱いされるのは林業者としてなんだか釈然としないわけです。
スギ林丸裸にしてお前らの花粉症治らなかったらどうしてくれるんだ、といろいろな意味で目を真っ赤にしながら小一時間ほど問い詰めたいわけです。
もしくはハウスダストがアレルゲンの喘息。現代人は掃除を怠けはじめて、ホコリまみれのお宅が増えたのか。そんなことはないでしょう。

で、だ。

寄生虫なき病
寄生虫なき病
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モイセズ ベラスケス=マノフ 福岡 伸一
文藝春秋
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どーん。



さてさて、本書はアレルギー、もしくは広義の自己免疫疾患のお話であります。
衝撃的なマクラとしては「感染症の減少と反比例して免疫性の疾病が増加している」というテーゼ。そしてそれは特に先進国で起こっている。
喘息は万国共通、花粉症なら日本だとスギやブタクサだけれど、欧州ではカバノキ、アーモンドといったものがあって、まあどこでも苦労しているらしい。ただ、途上国にはあんまりないけれど、発展している地域では始まっている、らしい。
途上国と先進国を分けるものはなんだろな。というマクラでもあります。

で、著者はさきごろなんだか書類送検されてた藤田紘一郎のことを知り、寄生虫について調べ始める、という流れ。
本書は寄生虫だけでなく、人と共生する細菌についても語られる。人と長く共生関係にあった寄生虫や細菌は実際のところ、人にそれほど悪影響は及ぼさないそうだ。どころか、胃ガンの原因とされている悪名高いピロリ菌ですら、人の免疫システムの一翼を担っている可能性すら示唆されている。


印象深いのはちかごろの生物学の流れの早さ。この前読んだ本(「書評のつもりが単にねこ好きを開陳するだけになってしまった件」)でも感じた。2000年からこちら側の進歩はとっても早い。高校時代に習った生物と少し違うもの。僕の知識は順調に時代遅れになりつつある。
学際的なんて言葉がちょっと前に盛んに叫ばれていたけれど、考古学と人類学と生物学と遺伝生物学が絡み合いなんだかずんずんと進んでいる印象。定期的な知識のアップデートって大事だし、そもそも面白いよね。

不思議なのは免疫というシステムだ。アレルゲンが大量にばらまかれているから感作を起こす、という説明はよく聞いた。曰く、僕らはみんなタルを抱えている。少しずつ水が溜まっていく。タルから水が溢れるのがアレルギー反応です。みたいな。
この本では、大事なのは免疫寛容だ、という。過敏すぎる免疫を不感症にすべきだ、という。もちろん外敵からは身を守るべく組織された免疫軍なわけではあるのだけれど。

それはさながら、撃つべき敵を失った腐れ武士のようではないか。敵という名の目的を失った彼は自棄になり、酒に酔い、目が据わり、介抱しようとする町娘を怒鳴りつけ、あろうことか「寄らば斬る」を地で行く感じで母屋の柱を斬りつけるのだ。
ええ。妄想です。「部屋住みで冷や飯食らいの次男坊ヴァージョン」も思いつきました。
そう。アトピーが増悪するときって、皮膚の内側から痒くなる。自分で自分が攻撃されている感覚は、たしかにある。


幼いころの環境や母親の生活環境そのものも実は大きな影響を与えるらしい。幼稚園できったねえ手で取っ組み合いをするとか、動物を飼っているとか、そもそも実家が牧畜業ですとか。馬小屋で出産しろとはいいませんが、そういう要素もある、ということは知っておいてもいいかもしれない。
そういえば僕のきょうだいは、上は喘息、僕はアトピー、下は普通(のちベジタリアン)、というラインナップ(幼少時、今は知らない)。なんだかいわゆる「きょうだい効果」(下の子ほどきったない手でべたべたと触られるため、うっかり免疫寛容がつく現象)が出ているかもしれない。喘息とアレルギーは本書でもたくさん触れられており、優れて現代っ子的な疾病であると思われる。


この本の著者も丹念に免疫学の歴史を追っていく作りになっているけれど、やっぱりこの前読んだ本と同じように、著者自身が患者だ、というエピソードが挿入されている。広義のアレルギーを持つ人はいまどき珍しくないけれど、彼の疾患はヘヴィだ。そして、自分を実験台にあげてしまう場面まで、この前の本とそっくり。
そういった行為が良いか悪いかは触れない。ただ、アレルギーは耐え難い、とは云おう。我慢をしろ、と言われるから。程度にもよるけれど、死んだほうがマシ、という場面もきっとあると思うんだ。

そういえば、この種の科学書で風向きが変わったようにと感じるのは、そんな「患者」自身が高いリテラシーを携え、病因に向き合う姿でもある。専門家ではなくて、この手のセカンドマン、もしくはキュレーターが解説する本は増えた。
サイエンス・ライターである以前に、そもそも彼らはひとりの患者なのだ。ユーモアを交えながら軽妙に(やはりそれも前書と印象が似ている)語られる「研究ノート」は、真摯に向き合ってきた彼ら自身の病苦、そして研究の履歴でもある。そういった彼らが「フラット」に病気や研究を見つめていることも印象的だ。今わかっていること、症状や対処法は千差万別であること、筆致の慎重さにこそ、好感を持つ。
患者の「はしくれ」として、そういう部分に強く惹かれる。


本書全体を通じて示唆される「ヒトは多数の他の生物とともに生きてきた」という考え方。私をつくるのは、こんなふうにぺらりぺらりと手足を動かす私自身だけではない。私は私の中に巣食うたくさんの間借り人たちと、どうやら共にあるようだ。
そうすると、現代の抗菌グッズ志向ってなんだかな、という話になりそう。

「きょうだい効果」が示すように、アレルギーを防ぐための免疫寛容はとくに乳児期のアレルゲンへの接触・暴露が大事であるらしい。僕がいまさらアレルゲンと接触しても、単にアトピーが増悪するのみだ(かどうかは実はわからなくて、スギ花粉症患者へのエキス(?)の舌下接種治療が行なわれているニュースを最近みた)。つまりこのあたりが、今のアレルギー治療の前線付近なのかもしれない。
ということで、著者はついには寄生虫を自家薬籠中のものにしてしまう(!)のだが、その結果は本を買って読んでね♪

ところで本書、もうひとつのソリューションというか、可能性も示されている。それは腸内細菌の多様性。ビフィズス菌をはじめとした、多様な(ヒトと仲良しの)細菌が住まうことが大事だ、と繰り返し語られる。
あるいは、抗生物質の服用は多様性を損なう、現代では母子が世代を経るごとにヒト桁ずつ多様性が失われているかも、などとすげぇ恐ろしいこともさらりと語られる。
そういえば浪人時代に生物の予備校講師さんは「消化器は全部自分の外側にある」と仰っていて、ほう、と感心した記憶がある。心臓や肝臓は内蔵だ。でも胃や腸は食物という外部に触れるでしょう?だからそれは外側だ、と。そんなどうでもいいことに反応するので成績上昇が見込めなかったのだ。それはいいや。

アレルゲンは程度の差こそあれ、昔からあったし今もある。アレルゲンの量が問題であればハウスダストやスギの木を伐ればいいんだけれど、こんな免疫の話を知ると変わってしまったのは僕らの身体の中身、なのかもしれない。

とするとだ、僕の腸内の柔突起を間借りしている約1.5kg(!)もの細菌たちは、もはや僕のカウンターパートとってもよい存在ではないか。戦友であろうよ。彼らの調子を整えるのは、せっせと花粉症用の目薬を差したり、ひげを剃ったあとにアフターシェーブローションを塗りこむ作業となんら変わらない。どちらも「外側」の話なのだ。
彼らにはもそっと大事にしてあげたい。栄養をあげてもいい。
脇腹の贅肉とか、まずは差し上げたい。


そんなことで、いきなり寄生虫と同衾するのはさすがにハードル高すぎだし、やっぱ発酵食品よね。
さしあたりスーパーでいかの塩辛に手を伸ばす。

違う。そうじゃない。
大事なのは細菌性の発酵だ。酵素による発酵ではない。そもそもこれでは今晩のツマミのチョイスとなんら変わりないではないか。生きて腸に届いて欲しいのは旨みじゃなくて、僕のカウンターパーツたちなのだ。
ひとりかぶりを振り、改めて納豆とヨーグルトを購入。しばらく食し始める。これがどうも、いいような気がする。ざっつぷらしーぼだろう、これは。プラシーボだろうがなんだろうが、調子がいいなら、そのほうがいいに決まってる。
僕の身体は別に実験台じゃないもの。対照実験とかしなくたっていい。


そんなことでまたひとつ、おもちろい知識を得たな、というお話。テレビの健康番組とかでもいいような気がするんだけれど。