一応、補足というかなんというか。
ビズップヌイバのエントリーの続きですよこれはまさに。誰がなんと言おうと、だ。
あんまり生態学とか生物多様性の議論って好きじゃない。学生の頃からそうだった。生態学ってかっこいいな、って高校生のころは思ってたのにな。なんでだろう。オオクボ先生お元気ですか僕は元気です。今回はそのことについて少し考えてみる。
今回使用するテキストはWWFさんの「生物多様性の重要性」。
ふむ。金かかっとるな。このページ。さすがは天下のダブダブはんやで。
3つ上がっているうちの上2つは、ひっくるめて考えていいんじゃないか。「健康と医療」への貢献も生態系サービスの一部として計上してもいいのかな、と。思うに、生物多様性というのは一つの冗長系として作用しているのではないか。冗長系とはバックアップシステムみたいなものだ。一つしか系を持たないシステムはそれがショートしたらおしまい。福島第一原発みたいに。複数の系を持つことが安定に繋がる、と。
もう一つ特徴的なのが、金額換算。金額に換算する意味は、ものさしを合わせる意味合いと訴求力を持たせるためだ。
まず誰もが分かる共通の価値に合わせること。そして多様性サービスにこれほどの恩恵受けているのかと。こういうのを代替法といって、いろいろな場面で使われる。例えば森林の有する公益的機能はこんな感じ。
本当に生物多様性に誰の目にも明らかに価値があるなら、敢えて訴え出る必要はない。複雑でわかりにくいから訴える、のだと思う。なるほど。
しかし、ここで通底して語られる「価値」とは、「人にとっての価値」ではないか。生物多様性の議論で好きじゃないのは「誰にとって」価値があるのかがあまり語られていないせいだ。ここにまずひっかかる。
で、3つめ。
「人間のために存在しているのではない」と「他の動物のことを考慮にいれるべきだ」とは違うことを云っている。事実と当為の違い。「〜べきだ」という言明には発話者の価値観が含まれている、云々。
そして仮に「他の動物のことを考慮にいれるべきだ」というのであれば、それは誰が言っているのか。もちろん人間だろう。人間が人間的視点で動物を考慮に入れるという。
別に人間様が万物の霊長だなんて云うつもりもないし、動物虐待を是としているわけでもない。ああ、犬は食べちゃいましたけど。
「我々」と語る言葉の中に動植物は本当に入るのか。おお、なんかピーター・シンガーちっくになってきた。
生物多様性条約から抜かれたという
「人類が他の生物と共に地球を分かち合っていることを認め、それらの生物が人類に対する利益とは関係なく存在していることを受け入れる」
という文章。がんばってがんばって、ずいぶん控えめに書いたんだろうな、という印象は受ける。でも、なんだろう、この。サイフを忘れて地雷原にミュールで駆け出すサザエさん的とっちらかった違和感は。
「受け入れる」ということは一体、何を意味するんだろう。
僕は、この辺が「誰にとっての価値」なのかがあんまり言われない理由なのじゃないかと思う。自然の権利を拡張することによって、自然を守ろうとする考えがかつてあったし、今もある。環境が保全されないのは、自然の権利が不十分であるせいだ、と。
僕の経験を話す。
ダムを作ると生物の行き来が困難になる。コンクリート面は生物が住みづらい。魚道だって作れるし、パネルを貼ったりすることもできる。でも当然そういうのはお金がかかる。
人と自然のどちらを優先すべきなのか、って論を待たないと思うのね。もちろん人でしょ。だって災害復旧や防災のためにしてるんだもん。
じゃあお金がかかっても多様性に配慮すべきか。それはケース・バイ・ケースだ。守るに価する場所ならするだろうし、そうでもないならばしない。
実際のところ、バジェットは決まっている中で量をこなそうするから一件あたりのコストを抑えたいインセンティブは強く働くことは事実だし、それは環境を軽視していると指弾されても仕方ない。
しかし、上のような考えと「生物が人類の利益とは関係なく存在していることを受入れ」ることは整合するか。
つまり僕の違和感は、途中まで金銭的価値に落としこんでおきながら、最後にある種のモラリズムがちらついて見えることにある。人に寄り添う顔をして、結局人から離れていく考え方、というか。
クジラは頭がよくて「かわいそう」だから捕鯨やめて!みたいな。違うか。
僕らは同じ平面に立って綱引きをしている。でも、一部の人はそれを忘れているか、わざと違う話を持ち出している。美しくて、象徴的なレトリックをつかって。
生態系を守るのは大事、はいいけれど、課題はいつもその先にある。たとえば少数民族が山をコーヒー畑にしてしまうことは?人と人の問題ではないか。キャロリン・マーチャント的というかマレイ・ブクチン的というか。賢しらぶって名前挙げてみただけですごめんなさい。
ソーシャルエコロジー的課題がビズップ・ヌイバでも転がっているように見えたのね。
この場所で「生物多様性が大事です!」叫ぶのは、逆に実態を覆い隠しはしないか。「多様性が大事」という主張そのものは何の解決策も提供しない上、マツ林をコーヒー畑に変えてしまう少数民族は「生物多様性を減らす原因」になりえる。保護区域からの人の追い出し転化してしまう可能性だって、あるでしょう。
振り返ると環境倫理学・哲学の議論は面白かった。林学から出てきた田舎者にしては新鮮な話ばかりで。自然の権利訴訟における「野生動物の原告当事者適格」なんて傍で聞いていて、へぇ〜うまいこと考えたなと思ったものね。僕らはすでにたくさんのケーススタディや考え方、参照できる資料を持っていたんだ。実は。
その上で、大事なのはあくまで人だろうと。環境なんか二の次だろうと。敢えてそう言い切ってしまったところに解があるような気がするのね。多くの場合、環境か開発か/自然か人間かの二項対立なんかしていない。二項対立しているように見える事柄の多くは人と人(の利益)が対立している。
生物多様性が人にとって利益がある。それはいい。そしてその幾つかは失われる危険性がある。解決方法は人同士の利害対立の調整。原始的なドロナワだと思うんです。
「他の生物を人の近くに引き入れること」で自然へのエンパワーメントを図るのは、却って事態を混乱させるだけだ。僕はそう考えます。
ディープ・エコロジーってなんだかいい響きだ。ロハスとかもいいね。でも考えていくといろいろ「乗れない」部分が出てくる。
自然を守ろう!からスタートするのはいいとして、過去に起こったことを踏まえるのは大事だよなぁと。そんなことでむにゃむにゃと今後も考えていこかと思います。