2012年4月17日火曜日

Dead winter dead / 語感の余韻



まあ、春だが。というかここは常夏だが。
だって、寒い時にこんな話をしたら寒くてしょうがないじゃない。




本当は導入にギターによる「歓喜の歌」が入っていて、そこから聴いたほうがよい。
なぜ Dead、という単語を重ねるのだろう、と気になった。というかほとんどタイトルに惹かれて買った。で、歌詞カードを見ると「死、冬の死」と、ご丁寧にゴチック太字で印字されていた。はは、そのまんま。「デッド・ウインター・デッド」という言葉の語感は邦訳よりもはるかに印象的だ。

レコードのデーマはボスニア紛争に関するもの。レコード前半のハイライト「This is the time」がボスニア・ヘルツェゴビナの独立、開放感と栄光に溢れた一風景ならば、「Dead winter dead」は悪化する戦況を切り取ったような、ダークでザラザラとしたリフ・オリエンテッドな一曲。レコードタイトルにも冠されているこのレコードを代表曲といっていい。ザッカリー・スティーブンスのシアトリカルかつ、どこか毒を含んだようなヴォーカリゼーションも秀逸。
95年リリース。今はなきゼロ・コーポレーション。なぜ公文がメタル・レーベルを持っていたのかは未だに謎。


なぜ場所も季節も勘違いなことになってるかというと、日本からの友だちが一冊の本を置いていったから。
『ドキュメント戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争』高木徹, 講談社文庫, 2005
NHKのディレクターによるノンフィクション。
ボスニア紛争があったことは知っている。でもまあ、知らないに等しい。日本語の活字に飢えている昨今でもあるので、興味深く読んだ。

旧ユーゴスラビア連邦からボスニア・ヘルツェゴヴィナの分離独立し、旧連邦の盟主たるセルビアとの反目により紛争が始まった。劣勢だったボスニアは、窮状を訴え国際世論を味方につけるため、アメリカのPR企業と契約する。PR企業といっても電通とか博報堂とか、そういうチラシ企業を想像してはいけない。
PR企業はボスニア政府とともに「コップの中の嵐」に無関心であった世論の耳目を引きつけ、セルビアを悪者に仕立て上げる。例えば、「民族浄化」"Ethinic cleansing"という「コピー」を作り出し、盛んに喧伝する。 
そうしたPR活動は、事実かどうかとはまた別のところで行われていた。企業は契約したクライアントの利益のために活動する。虐殺や強制収容もきっとあった。でも、「民族浄化」の検証はあまり行われず、根拠が曖昧なまま世論や報道は加熱し、セルビアが悪者にされていく。
本書はその過程を丹念に追ったレポルタージュ。

筆者はセルビアが別に「無辜の被害者だった」とは云っていない。しかし少なくとも現在(05年だけど)のサラエボとベオグラードほどの落差、つまり戦勝国と敗戦国の格差ほどには、当時、お互いがやっていることの違いはなかった(例えばボスニアだって「ちゃんと」収容所を持っていた)。PR企業の「戦略」により、国際世論がコソボ紛争を注視し、セルビアを悪者と認定し、NATOが介入して今に至る状況が確定した。ボスニアは「PR戦争」に勝利したわけだ。
"Ethinic cleansing"という言葉はとてもクリアでスムース、響きが良い。それでいて、意味内容に底知れぬ恐ろしさが潜んでいる。道義心を掻き立てるには、とっても秀逸なコピーだ。ユダヤ人の感情に配慮して”holocaust"という言葉を使わなかった、というくだりもとても気が効いていて気持ちが悪い。
ビューポイントによって、きっと全く違う風景が見えるのだろう。筆者の質問に答えるPR企業のインタビュイーとのやり取りを読んでいると、人がゴミのように思えないこともない。クールで淡々としている。だってビジネスだからさ、と言わんばかりだ。


冒頭のSavatageにしても、実はアメリカのバンドだ。このレコードのなかにはいわゆる「死の商人」をモチーフにした曲もあるのだけれど、いま考えると、彼らの怒りはマッチポンプようではないか。
アメリカの企業が兵器を売りつけ、それによる犠牲をアメリカ人が嘆き、怒る。しかしそのアメリカ人の怒りは、そもそもアメリカのPR企業が火をつけ、油を注いだものだったりする。
入れ子状のマッチポンプ。こんな例も珍しい。

こういう行為の是非について、正しいか間違っているかを考えることは、ある世界の人にとってはナンセンスなことなんだろうなという気がしてくる。
強い印象を受けたのは、言葉と、それが与える余韻だ。その余韻の破壊力、といってもいい。「キラーワード」は戦争の行方すら決める。呆然とせざるを得ない結論。それこそナンセンスな世界ではないか。
高木は文庫版のあとがきで次のように述べる。
「はっきりしていることは、「PR戦争」の倫理を問い、その答えを見つけ出すまで、現実のさまざまな「戦場」で戦っている人々、そして日本という国、そこに住むわたしたち国民が待っている余裕はもうない、ということである」
こんな風に皮肉を吐いている余裕すらないということなのだろう。でもさぁ、というふうに思わざるをえない。



伊藤計劃の『虐殺器官』(早川書房, 2007)では、サラエボの街は熱核反応により消えてしまっている。ああ、こちらはフィクション、SF小説。ネタバレなので読んでない人は気をつけてね。サラエボは実在します。
結論からいうと、「虐殺器官」とは言葉であり、文法であった。
「キラーワード」はコトの成り行きを決めるだけではなく、人だって殺すだろう。そういえば、この小説もPR企業の人間が重要な役割を果たしている。フィクションだけれど現実に近い、というよりも現実そのものじゃないか、と思う。前掲書を読んだ今となっては。
言葉なり文法なりを扱うのがスムーズでクリーンな世界に生きているクレバーな人間であるというところもなにか引っかかる。事件は会議室で起こっ(以下略)。たとえばそういう人はしばしば敬虔なキリスト教者であったりする。僕にはもう、よくわからない。あまりに整合しない事柄が並んでいる。


高木も言うように、「民族浄化」という言葉はすでにバズワード化していて、その後のコソボやソマリアで使われている。一見すると民族対立しているから「民族浄化」というワードを当てはまめて使っているように見える。

だが、「民族浄化」という言葉がまるで枕歌のように紛争を呼び込むものだとしたら?Cleansingというスムーズでクリーンな言葉の使用は、安易に「アイツらをクレンジングしてやれ」というコピー・キャットを生み出しはしまいか。小さな諍いを、手の付けられないような鬼胎に育てあげはしまいか。「適切な」言葉が人の行動を規定してしまうような。
もしそうであるならば、きっと世界は前書よりも本書に近い。

いまセルビア人がボスニア紛争のことをどう総括してるだろう、と想像する。あるいは僕ら自身が僕らの行為をどう総括するだろう。「虐殺器官」のような結末を欲望するのは、彼らかもしれないし、もしかしたら僕ら自身かもしれない。
スムーズでクリーンでクレバーなやり方が、とてつもなく愚かしい結果を招くことは、たまにあるよな。