2015年11月17日火曜日

FBでトリコロールが溢れててげんなり

先ずは、犠牲者の方へ、心から哀悼を。

あざとすぎないか。そんなことを3秒くらいは思ったんですが、言いません。大学生くらいまでの僕だったらやりかねなかったとも思うんです。
ただただ、巷に溢れるトリコロールが、彼の国の人を勇気づける足しになることを願っています。漆黒の闇に浮かぶ、無数の船の明かりのように。
4年前、そんなことを感じた記憶があるから。




テレビレスな生活を送っているので、こうした事件が起こったとき、ピンとこない。ウェブでニュースを追うのがせいぜいだ。

そのかわり、こんな記事に出くわすことができる。
2015年パリ同時多発テロ事件 極東ブログ
彼の国に移民が多いことはよく知られている。様々な人種・アイデンティティを持った人が混ざり合うのが今のフランスだ。

ちょっと想像してみて欲しい。たとえば、あなたはアラブからフランスに流れてきた人である(その子どもであってもいい)。細かい不満は多々あれど、そこそこ満足、としよう。そして、今回の事件が起こる。もちろん、あなたは何もしていない。
どうだろう。
僕だったら、周囲の目が怖くなるような気がする。常に自分を正当化しなくてはいけない気持ちになるだろう。ほら、僕は無害だよ、と。場合によっては、アイデンティティを押し隠して生きていかないといけないかもしれない。それはちょっとしたフラストレーションだろう。
別に命をとられるわけではないし、不満だからといって、いきなりテロリストになることもないでしょ。でもさ、finalventさんのいうように「暴動」だったら、どうだろう?
暴動の芽が10年かけて育ち、今回の「テロ」に繋がったとしたら?

本当のところISがやったものだかどうだか、僕には判断がつかない。ただ、今回の事件がISと無関係だったとして、僕がISのひとだったら、ラッキーだな、と思うだろう。「実績」になるから。TGVの事故だって、犯行声明を出したいくらいだ。


そして今回もまた、大統領は「テロとの戦い」を宣言した。

今は手元にないのだけれど。9.11のときの本。アメリカがビン・ラディンを追っかけまわしていた時代の話。
文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)
大澤 真幸
日本放送出版協会
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敵は、徹底的に外的である。というのも、それは、「類としての人間」の外部、人間的な普遍性を規定する最小限の条件すらも共有し得ない他者だからである。しかし、他方では、敵は「われわれ」にとって内的である。 
というのも、それは、われわれが自らを類的な普遍性において定義しようとした他人に、その反作用によって生み出される、われわれ自身の分身だからである。もっと端的に言えば、それは「われわれ」自身かもしれないのだ。
ビン・ラディンひとりを探していた時代から、無数のビン・ラディンが世界に「偏在」する時代になった。
あなたがテロリストではないと、どうして言い切れるか。あなたはいつかテロリストになるかもしれないではないか。先ほどの移民妄想の続きだ。不安定になればなるほど、人を見る目は厳しくなるし、人の視線を気にする。誰にとってもフラストレーションが溜まっていく。

敵の顔が明確ではない時代。テロを防ぐため、安心のため、セキュリティーを上げるほど、人々は分裂し、新たな敵が生まれてしまう時代。そんな未来を大澤さんは予見してしまった。自由・平等・博愛を掲げる国での出来事というのも印象的だ。
僕だって、処方箋を持ち合わせていない。でも、「テロとの戦い」で、どこぞを空爆したって、そこに敵はいない。移民への統制を厳しくしたって、内側から敵が生まれる。それくらいの予想はできる。


人々が混じりあうフランスに対して、(無邪気にも)トリコロールを掲げることは、誰の、何に賛同し、肩入れする意思表示なのか。哀悼の先にある、含意について。

少しだけ、そんな感想を抱いています。