あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ベトナム、カマウ省は相変わらず日中は30度を軽く突破。乾期で湿度が低いのと、朝晩涼しいくらいですかね。米の収穫も最盛期です。何度目の収穫か知らん。だぶん三回目。
朝焼けのウミンを。植林の日は5時起き。
さて、旧年中の話。去年最後の植林の日、ひととおり終わってボートで会社に帰る。ぽんぽん揺られて30分くらいだ。その帰り道。
- フミ、この花知ってるか? とLongおぢが訊く。
- 知ってるよ。 Bông senだろ?
- 違う。Bông súngだ。
- Súng?
bôngとはベトナム語で花(北部では hoaか)、 senはハスのこと。 Hoa senは「蓮の花」にしてベトナムの国花。僕としては、水辺にあってケバい花はみんなハスと思っていた。なので、これは異なことを、となる。
帰ってsúngを調べるとスイレンだった。なるほどね。では、ハスとスイレンはどう違うんだい、という話。
いんたねっと先輩は花が水面にあるのがスイレン、浮き上がるのがハスという。あと、葉っぱも切れ込みがあるのはスイレン、ないのがハスと教えてくれた。なるほど。
スイレンって睡蓮だから閉じたり開いたりするハスみたいなもんじゃねぇの、と思っていたが、ハスでも閉じたり開いたりするそうで、あんまり関係がないみたい。
したがってこれは間違いなくスイレン、ということになる。葉に切れ込みがある。
おもむろにカウンターパートのKhaiさんがごそごそし始める。
スイレン、げっと。腕を突っ込む前にソデを捲ったらどうでしょう。
ベトナムではスイレンの茎を食べる。炒め物や鍋の具として使う。食べてる分には気が付かなかったけど、こいつだったのか。
鍋にするとこういう風になります。ボールに直火なのは、この際気にしない。
ちょっとそのまま食べてみろ、というので皮を剥いて食べてみる。サクサク。少しグルタミン酸的なうまみも感じられる。エグくなくて食べやすい。それにしてもなんでも食べるんだなぁと感心しきり。
余談だが、この水で食べてもお腹を壊さなくなったのに若干の進歩を感じるところ。
メコン・デルタの川や堀の水は茶色く濁っている。汚いかといえば、たぶん汚い。
地元の人は川の水は飲まず、雨水を溜めて飲む。溜めた雨水が底をついたら井戸水を飲む。井戸水には毒がある、と現地の人はいう。あんまり飲んではいけないという。細かいことはよくわからない。浅井戸だから大腸菌とかがいるのか、まだ枯葉剤の影響があるのか。
きれいな水を手にするのは存外大変なことなのだ。蛇口をひねったり、裏山の沢から容易に水を引ける日本とは違う。
こうして書いている今もまた、当方も水がなくて思案中なわけだが。
泥というと汚泥とかヘドロとか、悪臭がして、不潔で、忌避すべきもの、というイメージがあった。ぐちゃぐちゃとした表象と臭いもあいまって。
こちらの湿地林を歩くともちろん泥は臭いがある。地形的にここは泥炭湿地が発達しやすいので、歩くだけで土中の有機物を撹拌してしまうためだ(と思うんだが、どうだろう)。
そんなことを言えば、日本だって土砂崩れの後は十分臭い。
ハスと言えば"泥中の蓮"の法話。泥の中にあってハス(もちろんスイレンも)美しい花を咲かせること。あるいは、泥の中にあるメラルーカの吸い上げた水が、きれいに透き通っていたこと。何かの秘蹟をそこにみたように感じる。
泥は汚い。でもここに住む人は、泥-濁り-汚いこと-臭いこと-汚れること に対する抵抗が少ない。僕と比較して、だけど。泥とは普通のこと/ものなのだ。
泥はこの地に満ちている。それを忌避することはできなくないけれど、難しい。
泥が「悪しきもの」ならば、蓮の花は本当の奇跡だ。しかし、そもそも僕はなぜ泥を「悪しきもの」として捉えていたんだろう。
普通のこと/ものから、美しく、傑出したものが生み出されることだって、十分驚異ではないか。むしろ「普通でしかない人の間にある物語」としては、このほうが相応しいのではないか。
「透徹した悪」なんて言葉が意味を成さない世界においては。ね。
そんなこんなで、晩ごはんの具材を手にし、ぽんぽんと一行は帰宅。