2025年5月17日土曜日

ハイファイ/ローファイ:"My Way" Marc Martel



Apple Musicに出ていた。どうも旧作らしいのだけども、今年から取り扱いを開始したみたいだ。

映画「ボヘミアンラプソディ」での鮮烈デビューから「史上最もフレディ・マーキュリー」なこの方。ああ、クイーン以外の曲も歌うんだねと思って追加した。


シナトラ、ビーチボーイズ、カルチャークラブ、そしてもちろんクイーンなどのカバー集。その他、”Unchaind Melody"やら"好きにならずにはいられない"やら、誰もが聞いたことがある曲を「フレディ・マーキュリー」がカバーするという、なんだか、イタコ的ななにかだ。

マーテルさんの歌唱は折り紙付きなので、ポップスファンなら誰だって楽しめるレコードだろう。クイーンが嫌いだ、という人はもちろん除く。

マーテルさんはもはや、フレディと不可分のシンガーだ。圧倒的な歌唱力とキーレンジを持ちながら、フレディの歌いグセを完全に把握し、クイーンの曲でなくともフレディが歌ったらこうなるだろうという想像を一切裏切らない。いい意味です。褒めてます。

自分探しをしている青年であれば、どこか自分らしさを出そうとしそうなものだけれども、彼の歌からはもはや、そんな気負いや衒いは感じられない。彼のアイデンティティはフレディと一体化してしまった。

それでよいのか、と人ごとながら思うのだが、彼自身を引き上げた寄る辺がそこなのだから、外野がとやかく心配することもないのかもしれない。

どことなく、顔もフレディに似ているような気もする。


このレコードで印象深いのはトム・ウェイツの"Take It With Me"。99年の「ミュール・バリエーションズ」の珠玉の一曲。

トム・ウェイツという人は、いろいろな人から言及され、カバーされる。不思議と彼からはずいぶん縁遠いフィールドにいる人も多い。


この曲のオリジナルは冒頭の印象的なピアノのテーマから、寂寥感のあるメロディが朴訥とした歌声で紡がれる。

だいたいトム・ウェイツって極端に乱暴であったり繊細であったりするんだけれど、ローファイというか、曲の輪郭が少し滲んでいる。細部がよく見えない。大時代的な、70年代以前の空気を醸す人だ。相応に年寄りだけれど大した年寄でもない。だってロブ・ハルフォードは73歳で"Painkiller"を歌ってるんだぜ。75歳なんて誤差みたいなもんだ。

トム自身がローファイな人だからだろうし、テクノロジーだとか、音質とかテクニックとか下世話な人間のこだわりとは隔絶された大地に棲んでいるからなのだろう。


僕はハイファイ人種なので細部が見たかった。この曲がどんな風にこの世に現れるか。鍵盤を叩く。歌声が喉から出てくる。その最初の起こり/震えが聞きたい。そう思った。

その意味で、このカバーはまるで、ローファイな曲を解像度高く演奏したらどうなるかという、僕向きにあつらえられた実験のようだ。


結論。曲の輪郭がより鮮明になって、シンプルに楽曲の良さが感じられた。あーあっぱこの曲いいんだわ。そう思った。

強く、荒い出だしのフレーズでも、ビブラートを効かせながらきれいに落とし込んでいくマーテル(=フレディ)の繊細なテクニックが光る。

弦の上をなめらかに、ヴィヴィットに音が跳ねていくヴァイオリン。やわらかな指がそっとやさしく撫でていくようなイメージだ。楽曲に力強い身体が宿ったような感じだ。


対して、

トムのオリジナルは、やわらかくて壊れやすいものを、ごつごつとした硬い手が不器用に擦るようだ。思ったよりトムのヴォーカルはすぐそばにあった。息遣いは耳のすぐ側にある。しかし、マーテルで感じられた溌剌とした生気は前衛にはなりえず、霞の向こうにある空気がスピーカーから漏れ出てくるようだ。

違うのは、対象を撫でるその指の感触「だけ」ではないか。

マーテルがフレディと化して歌うとき、僕が聴くのはマーテルという「歌う機械」の精妙さであるのかもしれない。精妙な機械が奏でる音を通じて、僕はこの曲の骨格を触って確かめているのだ。うん、確かにこれは素敵な曲だった。

ごつごつとした手を持つ男の語りは、これほど近くにいるにもかかわらず、スピーカーの向こう側で完結する。僕はその余韻を、あくまでおこぼれとして預かっている。僕はスピーカーの向こう側で何が起こっているのか、知りたい。

記録媒体としてのレコードを聴くとき、今ここで僕の耳の前で再現するのか。あるいは、その時に起こった出来事を封じ込めた記録が、僕の耳の前で紐解かれるのか。ハイファイとローファイの違いは、そんなところにもあるかもしれない。