2026年6月26日金曜日

それは誰の物語なのか / Venus Colapse

 またしても期待の新人を発掘してしまった。
最初はそう思っていたんだけれど。


Venus Colapseっていうバンドらしい。

女性ボーカルのヘヴィ・ロックなんて今どき珍しくない。Evanescenceだって、Avril Lavigneだっていたわけだし。

潮目が変わったように思ったのが、Linkin Parkにエミリーが加入した時かな。
それまで、クリーントーンとスクリームを使い分ける唱法は男性がやっていた。

唱法の歴史に通暁しているわけではないけど、クリーントーンの歌い方はずっと昔からあって、いわゆるデス・ボイスを初めて聴いたときは、違う競技だな、という印象だった。
使い道も違っていて、デス・メタルで聞くべきところは咆哮の後ろの工事現場みたいなブラストビートだったり、メロディを紡ぐギターだったりして、声は添え物的な感じがしたな。
あ、声を聴いている人ももちろんいると思う。あくまで僕の場合の話。

リンキン・パークあたりか。ポスト・オルタナと呼ばれた人たちが、強い表現を得るためにクリーントーンにスクリームを混ぜるようになる。
一方、それよりちょっと前くらいからKornだとかParadise LostだとかFear Factoryだとか。スクリーム/デスボイスからクリーントーンに降りてくる人たちもいた。やっぱり表現の幅を広げるためなんだろうね。

いまではクリーントーンとスクリームのミックスはごく普通だ。Bring Me The Horizonだとか、Sleep Tokenだのメタルコア勢はもちろん、普通のポップスだって当然のように使っている。でもある時代より前は、ぜんぜんふつうじゃなかった。

こういう話をすると、なんだかおじさんになったな、と思う。
話をVenus Colapseに戻す。

ああ、この人の声は相当歌い込んでいるんだなと思った。ボリュームを抑えて歌うときのわずかにざらつく感じとかね。そしてコーラスでクリーントーンからスクリームに変わるんだけど、これが完全にシームレスに繋がっている。
びっくりした。すごいテクニックだと思った。

ささやくようにも歌えて、コーラスで声を張れて、そのままざらついたスクリームまで歌い上げる。守備範囲が広い上に、とても上手。

これはすごいヴォーカリスト出てきたなと。
曲調も僕の大好物な感じで、あらいいバンド、と思ったんだよね。


でもこのバンド、ほとんど情報が出てこないんだよね。こんなに上手なのにいままで完全無名なのか。まあ、Sleep Tokenみたいなのもいるからな。

そしてPVを見直した。本人出演の破恋ストーリーみたいなのが演奏風景と交互に映し出される、よくあるやつだ。

...これ、よくあるやつすぎないか?
このとき、はじめてぼんやりとした違和感を覚えた。

違和感は歌じゃなくて、演者として「本人」がそこにいること。実力のあるミュージシャンが、デビュー間もないとはいえ、こんな使い古された記号的なモチーフのPVに、本人として演技するものだろうか?


やや古いけど

Nickelbackの"Someday"。
こんな感じだよね。この動画がクールかどうかは別として、物語とバンドは別っていうのがふつうなんじゃないのかな。


そんな視点で見ていると、絵の見せ方とか、いろいろ違和感が出てくる。
彼らはつまり、生成された音楽であり動画なんじゃないのかな。

Apple musicには2枚のレコードが配信されている。25年と26年。ハイペース。
聴いてみると、これがいいんだな。僕の大好きな感じで。
でもここでも違和感があって。つまらない曲がないという違和感。贅沢な文句。
捨て曲なしっていうのはいいことだけど、どんなアーティストだって、僕の趣向とドンピシャにハマることってない。大なり小なりズレが生じる。
なんだろう。オルタナティブからポスト・オルタナへ。僕が大好きだった時代の切り貼りして蒸留して、さらに現代フレーバーをまぶしたみたいな音なんだ。
当然、そんなもの好きに決まってるだろう。


これが生成されたものだったとする。
もし実在存在の人間でしたらごめんなさい。あなたたちが大好きです。

でも生成されたものであったとして、僕に何か問題あるだろうか?
大好きなものの最大公約数が人工的ににせよ提示されているんだ。
文句のいいようがないよね。


ひとまずそういう結論に達する。
20年ものの、蒸留された、琥珀色の液体を僕はなめながら、もう少し考える。


本人が演者も兼ねているPVってどんなのがあったっけ。

Eminemの"When I'm Gone"はマジ本人のリアルトークで、それはそれでめっちゃくちゃ重たい話で、逆にいい。ラップは主食じゃないんだけど、このときはこればっかり聞いていた。
ほんとにスウェーデンで6万人を前にステージしたのか知らないけれど、歌詞に出てくる娘のヘイリーは実在存在のお嬢さんなのは周知の事実だから、彼はプライベートを切り売りしてこの曲を作った。
ここでエミネムは終わった。それでいいと腹を括ったからこその感動と余韻がある。

実は終わっていなかったことを知っているのは僕やあなたたち、サバイバーの余沢であり、この文脈ではまったく蛇足というやつだ。


Linkin Parkの"Heavy"も本人出演。
その後に起こったことを考えると、PVで映し出されるチェスターの煩悶や歌で語られたことの一部は、少なくともチェスター自身の持ち物だった。僕はそう理解している。

そういえば、エミネムもリンキンもセラピー風景だな。たぶん、ただの偶然だ。たぶん。

本人が本人を演じるっていうのは、面白くもあるけれどかなり重いことだと僕は思うのよね。人生の一部をその物語にくれてやる、っていうことだから。


トミーとジーナは実在人物ではない。それはわかっている。でも、
私たちは道の途中、祈りながら生きるのよ、
と、ジョンに声を張り上げて歌うのを聴いたとき、少し鼻の奥がツンとしたのはなぜか。
たぶん、僕がトミーだったからじゃないか。
というか、無数のトミーとジーナが世界中にいたからじゃないか。

アヴィリルがあんなに流行ったのはなぜか。
太いパンツを履いた、とっぽいけど実は繊細な華奢な女の子と、そんな子に恋心を抱いていた不器用な男の子が世の中に溢れていたからじゃないか。


話が拡散してしまったけど、気にしないで気にして。これはあくまでVenus Colapseの話だ。
PVのストーリー。愛が破れる、でも負けない。
それはわかる。
でもこれは「誰の物語」なのか。「誰のための物語」なのか。

そこは上手に切り貼りしても、意味がないんだぜ。


音楽を通じて、そこで語られる物語を通じて、
僕はいつも「人間」を見てきたような気がする。

生成された音楽は、そこに到達できるか。
音楽自体はOKだ。ふつうに良いものが聴けた。

でもなあ、これから。僕を、みんなを。
深く揺さぶるような何かが、ここから出てくるんだろうか。
なかなか興味深い実験だ。