2018年12月14日金曜日

試験を受ける

合格したらドヤ顔で経緯を語ろうと思うのだけども、結果は3月だ。
手応えがあったような、なかったような。



合格者の経験談を読むと、技術者倫理についてずいぶん聞かれるよ、と書いてある。
頑張って暗記した。自問自答だってした。
型通りのことを20秒くらいしか聞かれなかった。
どうも、悶々とする。

言うまでもなく、技術者倫理って微妙な言葉だ。
どんな仕事にだって、なんらかの倫理は必要だし、今の僕はそれを満たしていると思う。まだクビになっていないから。
しかし具体的に、倫理を語ろうとした途端、その言葉は嘘くさくなる。

語らないことが奥ゆかしい。でも、語られないことも問題なのか。
人はどのように倫理を身につけるのだろう。
倫理を身につけたはずの大人は、どうして倫理的ポカを繰り返すのだろう。
技術士法も汚職事件が立て続けに起こった文科省が所管しています。
こんな人たちが子どもに道徳だとか云うのだ。こんなのって、ほんとこっけいだ。

特にこのことについて考え抜いたこともないし、考え抜くつもりもない。
道徳や倫理を語ることは無意味だとは思わない。ただその行為は、誰かさんの倫理的態度を醸成したりはしないのではないか。
倫理や道徳を語る側がしばしば、それに悖る行為をしてしまう。という反例。
そしてそれはこの社会では割とありがちなことであるから。という巷にあふれる反例。

ある倫理的な水準があるとする。人にやさしくせよ、だとか。
そのものさしを知る。人だから、うまく振る舞えるときもあるし、そうでないときもある。
うまくいくときと、そうでないときの違いはものさしによってもたらされる。

ものさしがあると知ること。ものさしは世の中にたくさんあると知ること。
さしあたり、この程度なのではないか。
どれが大事なのかは、各人が判断することになるのだ。


因みに試験では3義務2責務について訊かれた。たぶん一番よく訊かれるやつだ。
一番優先されるのは、「公益の確保」になるそうだ。
でも、試験から離れて、地震のあとの原発の有り様を振り返ったとき、もし僕が原子力技術者であったとしたら、何ができたか。
プラントメーカーの技術者が、原発の状況について解説していた。不安を煽る学者や、御用学者なんて呼ばれて指弾される学者がいた。

あのとき、どこに公益があったか。あまねく範囲にさまざまな種類の公益があった。
汚染の拡大で、それらが損なわれた。
答えがあるわけではない。公益は、その言葉よりもずっと深い奥行きがあるだろうし、とてつもなく残酷だ。
公益から出発する行動ができるか。僕にはまだその自信がない。