学者さんたちが燃え上がる様を散見して。
ああ、そんな言い方をしてしまえば炎上必至ですよ、と思って眺めていた。
繰り返すひとは繰り返すし、発信の仕方・巧拙の問題でもないんだろうな、と思ったんですよね。当人にすれば、これ以外のあり方はないんだろう。
きっとそうなんだろう。
そう思って、ここに小さな藁人形をこさえてみる。
昔、学者は著作で評価された。論文があり、本があり、講演があった。そこでは推敲され、論理が組み立てられ、一つの仕事として世に出た。
一方、SNSでは、その人の思いつきや怒りや皮肉まで、すべて同じ重さで流れてくる。
すると、受け手は仕事よりも人格を先に見るようになる。
ということが、あったとするじゃないですか。
僕自身、SNSに接してバイアスがかかる感覚がある。
昔の偉い学者だって、今のSNSを渡せばきっと同じくらい炎上したでしょうね。
丸山眞男をはじめとして。
罪を犯した人が自由や正義を語ったって全然いい。そうであるべきだ。でも、自由や正義を部分的にでも仕事にしていた人は、ちょっと様子が違う。
日常のささいな会話も、その人が語る規範に整合していないと、火の粉は仕事に飛んでしまう。
これはけっこう厄介なことだ。
規範的なことをたくさん考えていたからこその仕事であったり、立場というものがある。そこから外れた言動は、外の人からすれば容認できない。
あいつは結局口だけだ、と言われたら、その人にとっても、その人の仕事にとってもまったく心外なことだと思うんですよね。
若い学者も燃えてるけど、大家と言われる学者も平等に燃える。
これは当然で、その人の仕事と、その人の考え方・人となりは別のことだから。燃えない大家はSNSを使わない大家くらいだろう。
じゃあ、規範を扱う学者はSNSを使ってはいけないのか、あるいは、人となりと仕事を同一化させないといけないのか。
それってすごく重たい負担だ。現代の研究者はそんなに重たい誓約を背負わないといけないのか。
こんな文章ですら、何回も修正して書いているわけだし、僕はそもそも思っていることと違うことを言いがちな人間だから。
東浩紀さんは「発言より著作を読んでほしい」と言いながら発言を続ける。一方、北田暁大さんなんかは、いろいろあってSNSから距離を置いたように見える。
どちらが正しいという話ではない。
二人とも、この問題の難しさを知っているからこその選択だったように思う。
誰かが言っていたのかよくわかんないんだけど、正義とは「自由の構想」だと読んだ気がする。本当に僕は読んだのかな、そんなこと。
その線で行けば、誰もが何でも語っていい。好きにすればいい。そしてその構想と「語る人の人となり」は別の話であることも念のため整理しておこう。
病気のない世の中の重要性をビール片手にタバコを吹かせながら語る自由はあるんだ。
でも、その構想を実現するためには、周囲の人を理解を得なくてはいけない。
そのとき、「病気のない世の中」を語るアル中チェーンスモーカーは、いささか立場が悪い。僕は彼のいうことを納得しない権利がある。いや、実際には依存症とか、いろいろあるんだろうけれど、所詮、藁人形論法なんで捨象しますけど。
自身が掲げる価値を自分に適用できるか。世間から見られているのはそこであって、やっぱりそれはハードルの高い誓約だと思う。
規範を仕事にする人たちは、なかなか生きていくのが大変だ。
僕はやっぱり、個人を掘り崩すほどに高い誓約はしないほうがいいよね。と思う。
だから規範のレベルを切り下げていく。禁酒から節酒へ。禁煙から減煙へ。条件闘争みたいだ。
レベルをある程度下げたら他の党派と差異がない、となるかもしれない。であれば、その社会はまずまずリベラルなんじゃないかと思うんだ。なんか僕は変なことをいっているだろうか。
もう一つには、規範を掲げつつ、(今のところ)規範を守れない人間としてのあり方を、その人自身が甘受する方法もある。東さんとか、そんなところがあるかもしれない。
この場合、周囲の批判も引き受ける。アル中チェーンスモーカーなんだから仕方ないよね。あと、構想の強度もいくらか弱くなる。やっぱ説得力ないからね。
その人が守れない規範を外部の人が納得するか。難しいだろう。
でもそれは、とても人間らしい所作だと思う。
ここにもう一つ、藁人形をこさえてみる。
外部の批判を引き受けないからこそ、冒頭で触れたリベラルの炎上があるとする。
僕が思うに、その人の専門性や仕事の中では彼らは間違ったことを言っている意識はないんだと思う。むしろ、専門家なんだから事実関係に問題がない蓋然性が高い。
それでも炎上してしまうのは、その専門性の中から導かれる結論の伝え方に原因がある。つまり思ったことを伝えるのには、関係する別の規範があるんだと思う。
別に難しいことじゃない。意見を言う時はていねいにいいましょう、だとか、相手の意見をよく聞きましょう、だとか。そういうことだ。
例えば健康問題なら学者さんは、今見過ごされている課題を見出すかもしれない。今の社会にはこんな課題がある、その裏にはこんな不公正がある、とその人は研究して仕事にするかもしれない。
ただ、その問い直しには、そもそもクレームに対する寛容な態度であったり、意見そのものに対する多様性を受け入れる社会が前提となる。
ベーシックなルールがあるから問い直しができる。そこはよく考えた方がいい。
こういうこと、別にやりたくないならしなくてもいいんだ。でもしないなら、その人の掲げる規範やその人の仕事に耳を傾けられることもないだろう。
あなたの変えたかった現実は、あなたの態度「ごとき」で潰れていく。
それでいいんですね?、と。
うーん。まとめると。
規範には、それを支える別の規範があると思っていて。
各人の正義を語る自由はある。でも、それを他人に届けるには、寛容さや対話、自分の誤りを認める姿勢がいる。
昨今の炎上は、その二つ目の規範を気持ちよく踏み抜いているように見える。失敗が規範からの逸脱だということを理解し損ねている場合もある。だから何度でも炎上する。
高い規範を掲げることには反対しない。
ただ、その規範を支える別の規範まで含めて引き受けられないのなら、失敗した人がなお生きていける設計にしたほうがいい。規範は穏当なものとなり、そんなに目くじら立てて怒らなくても済むしかもしれない。
怒ってないと死んじゃうわけでもないだろうから。
それも嫌なら、せめて自分の不完全さに寛容でいてほしい。
謝ったら死んじゃうわけでもないだろうから。
ということなのかしらね。
もちろん、もう一つの生き方がある。高い規範を掲げ、それに従い生きていくあり方。規範と生き方が地続きのあり方。
あるにはある。でもそれは息がつまる。そこは望んで入るタコツボではない。そんな穴は誰もが入らない。社会は修道院ではない。ただの人が生きる場所だ。
失敗する人も、規範を守れない人も、頭をかきながら「できないんだよね」と笑う人も、それでも同じ社会にいられるくらいが、僕にはいい。
規範を仕事にする人たちにも、それくらいのほうが呼吸が楽だと思うんだけどな。