2019年11月19日火曜日

再生回数には意味はない。

ただし、個人的な意味はある。
しかしこの話は何回目だろう。




好きな音楽は、繰り返し聴く。好きだからね。
好きな曲の再生回数は何百回にもなる。3分ポップスだとしても、数時間になる。
何時間も繰り返し聴いていると考えれば、それなりではないか。
ヒマですね、という話にしかならないかもしれないが。


自分がどんな曲を好んで聴いていたか。
CDで聴いていたときは、理解しているつもりだった。次はあのCDのこれを聴こうと。
itunesになったときは把握しきれなくなった。
たしか、どこかに僕が好きだと思ったものがあったはずだ。しかし、それがどこにあるのか、どのようなものだったのか、覚えていない。
ついた癖がある。
レートをつける。好きだと思った証しをデジタルデータに刻む。
再生回数の確認:どうやら僕はこの曲を好んで聴いていたようだ(そうではない曲はさっさとスキップして、回数は増えない)。
状況の変化で、手を出す(出せる)音源が圧倒的に増えた中、弥縫策のようにそんな運用をしていた。

それが変わったんだな。子どもが生まれて。
掃いて捨てるほどあった音楽を聴く時間がなくなった。
再帰性がなくなった。好きな曲をもう一回聴けない。これはこわいことだ。

ひとまず、時間はないんだけれども、好きなものを好きである、と言いたい。
これは文句ねえだろ。
そして、好きなものは好きなものとして、記憶にとどめて置きたい。
その時に「ああ好きだな」と思ったことを残して置きたい。
仮にもう二度と、その曲を聴くことがなかったとしてもだ。


もう一度聴くから、好きだった証しを残すのならわかる。しかし、もう聴けない/聴けないかもしれないのだ。それがどれほどの意味があるか。
よくわからない。でもやっぱり。
証しを残すのは、もう一度聴きたいから、なのだろう。
なぜか。
ああ、これいい曲だなぁ、と思ったからだ。
また聴こうと思ったからだ。

前のエントリーではないけれど、そんな思いは「この先」に向けて開かれていてもいいのではないか。仮に現実はそうならなかったとしても。
明日はあれをしよう。次はこれがやりたい。
僕もまた、日々そのようなことを考えて過ごしています。