2018年9月30日日曜日

ほんとに大事なことは、どこかに書いてはいない

書いてあったとしても、ネットが切れたり、バッテリーがなくなったりするから。
あんまり意味のあるエントリーではないことを、冒頭申し添えておきます。




ネットには膨大な記事があるし、ネットがなくても本がある。
別に今に始まったことではないけれど、情報の海の中にたゆたっていると時間ばかりが過ぎていく。
ついったーとか見ていると、色んな人がさまざまにつぶやいていて、世界にはいろいろな展開があって。しばらくつぶやいていないと、気後れを覚える。
僕らしくもないと思うんだけど。

僕は、世界から置いてけぼりにされているんじゃないか。
置いてけぼりであるという実態があったとしても、これは不安なことだ。

良くないのは、置いてけぼりという事実ではなく、今を置いてけぼりと感じてしまうことだ。僕の世界が、僕を中心に回っていない。それはなんだかもったいない。


僕は、世界を享受する。世界は、汲めども尽きない。
今みたいに、世界をひたすら享受し続けるということは、ただただ、世界という海のなかで耽溺しているだけなのだ。

耽溺そのものは、身震いするほど楽しい。
しかし、それでは後悔する。
僕の胆嚢あたりがそんなことをいって戒める。肝臓は、酒の飲み過ぎについて苦情をいうし、大腰筋は、慢性的に苦労させているので早く横になってくれ、という。
僕は判っている。胆嚢の言う通りなのだ。

二十歳のときも、三十歳のときも、たぶん同じことを思った。
四十を前にして同じことを思っているのは。
成長がないということ。それくらい忘れやすく、維持するのが難しいということ。


気後れている場合ではないし、炎上している場合でもない。
自分の掌で、抱えた何かをじっくりと矯めていくような。
世界を取り戻すためには何かが必要なのだ。