若いころの自由は軽やかだったなあ、と思う。今、僕の自由は少し不自由な形になってきた。
僕はまだ、自由でありたい。
どちらかというとリベラルな人間なつもり。ではあったが。
最近やや、左派が退潮しているような感じもあるし、左派に対する批判は納得できるところもある。同時に左派の反論は、あんまり有効ではないよね、というものも結構ある。
僕は思想的にどちらなんでしょうね。指導教官からは「お前は左巻きで、急に右旋回はしなさそう」と言われていたけれど。
学生の頃まではリベラル的な立ち位置で何の矛盾もなかった。協力隊参加時に旧民主党にお手当を減らされた。事業仕分けってあったじゃない?そのあたり、軽い恨みはある。
内田樹さんが好きで、ずいぶん本を読んだ。リベラルなんだけど、軽やかな筆致が印象に残っている。
ある時から彼は「小さく慎ましやかに生きるのがいい」と云うになった。株式から配当を得て不労所得いいよね、って言っていた人が。待ってください内田先生、まだ不労所得も得られない僕が慎ましく生きたら、本当にミニマムな人生になってしまいます。と、思った。
あるいは前職で、仕事上の付き合いで議員さんと知り合うようになった。地に足のついた議論をされる保守の議員さんはずいぶん多いことを知った。
誰かを批判したいわけじゃない。僕がリベラルから保守に転調したのかどうかも、実際どうでもいい。ずいぶん平和な学生時代を過ごしてきたな、という感想がまずある。
そして、右派・左派問わず、今流れてきている多くの批判は、自分のこととして刺さる。僕が一人でこっそり痛がっている風景を想像いただければいいと思う。
ロックンローラーが左派的なのは、既存の価値観へのアンチテーゼを打ち立てたいから(だった)。これはもうほんとにね、アティテュードですよ。政府に中指を立てるのはその文脈では当然、是ですよね。そうでもないと、ドラックを乱用したりホテルを壊したりステージに来ない等の罪は通常免責され得ない。...これははロックじゃなくてパンクかもしれない。
ただ昨今、アーティストが保守っぽいことを言うのは大変だという記事を読んだ。権力との対峙という観点でアーティスト界隈の世界が成り立っているのなら、確かにそうかもしれない。
リベラル一色の中で保守的であることは、その世界のど真ん中で中指を突き立てる行為でもあるかもしれない。
ふいに、トランプさんのことを思う。僕の基準からすれば、彼はたぶん天国には行けない。少なくとも最初の段階において、彼が壊したかったものは、気位が高くて傲慢ちきで、偽善の香りを振り撒きながら砂上の楼閣に住まうセレブ・リベラルだったんだと思う。
一期目のトランプショックは、鼻持ちならないリベラルに打ち勝ったという意味で、確かにロックな出来事だった。凶暴性を増した二期目に至って、アンチ・トランプを貫く人もまたロックだ。ロックが思想や党派性ではなく、アティテュードであるならば当然そうなる。
もちろん彼自身だって気位が高くて傲慢ちきなんだけど、少なくとも地に足がついている。地獄行きと言われたらたぶん、胸を張り、肩をそびやかして往くのだろう。
気になるのは、転げ落ちたセレブ・リベラルが息をしていないように見えることだ。
日本では安倍さんを撃った人の裁判が始まった。当時、彼の訃報に接して快哉を叫んでいた人がいたのを知っている。僕はそれをロックだとは思わない。おぞましい別の何かだと思った。
なんというか、僕は歳をとったのか。書きながら、そんな気がしてきた。
僕が想像したようなリベラル世界が現実に広がっているとしたら、それはたぶん権力構造を持つのだろう。“らぶあんどぴーす”って言わないと追い出される世界があるとしたら、それは僕が考えるリベラル世界とは違う。ずいぶん息苦しい世界だ。
いろいろな「力」から自由になりたかったはずなのに、逃げきれない。それはとても悲しいことだ。むしろ、自由になりたかった者が権力に安住するとかね。よくある話。
歳をとると住宅ローンとかあるし、やっぱり物欲は止まらないし、いつまでも若い子とお話ししたいだろうしね。取り巻きに傅かれていたベテラン・リベラルだっている。彼らは掲げた理想はいつまでも語る。
この矛盾を、僕は笑えるか。
僕自身が、あの時好き勝手に言い散らしていた理想やあの時謳歌していた自由を、今どう総括するんだっていう問いを立ててみる。すると、気ままな(丘)サーファーだった僕の背中に無数の矢が刺さる気がする。
腰が痛いので、腰だけはやめていただきたい。
あまり気持ちのいい妄想ではないけれど、この先を歩く道が少しだけ見えてくる気もする。「子ども怒るな、年寄り笑うな」——うわぁ、すごい月並みな。でもまあ、昔の人はずいぶん気が利いたことを言ったものだ。
そして、ふと思い出す言葉がある。シュクラーの「恐怖の自由主義」。変な言葉だ。
いろいろな議論が噛み合うとすれば、それぞれの主張のもう少し手前の方だと思うんだ。僕が恐怖を覚えないーあなたが恐怖を感じない。そんなおずおずとした自由ではないか。
ほんとうに変なのは、人に恐怖を与えながら自由を名乗れることのほうだ。
恐怖を生まないための自由。
たぶん、僕がこれから選びたいのは、そういうほうの自由なんだ。