2016年11月23日水曜日

僕的アビオニクスの改善

発生時、東京のホテルの6階にいて、おおおおお、と。

ゆっくりと続く揺れは、何かの暗示みたいに思えた。このまま収まるのか。それとも、これからどかん、と来るのか。暗示の意味を理解できないまま、ぼんやりと、おふとんの中で揺さぶられる。なにしろ二日酔いでしたし。

揺れが収まると、震源が気になる。このあたりをちょこっとだけ揺らしてみたのか、それとも、巨大地震のへりに、僕は佇んでいたのか。
感覚としての地震は、わからないことだらけだ。ということで、テレビをつける。
メディアは僕に鳥瞰を与えてくれる。


ニュースを観ながら、鳥はいいよな、と思う。
気になったら高いところから見下ろしてみればいい。そういうわけにはいかない人間は不便だ。こんなとき、人間様は何をするかというと、ヘリコプターを飛ばしたり、人工衛星を打ち上げたりして、もっと高いところから眺める。

誰か/何かが、対象を見る。そして違う誰か/何かが、それを伝播させる。そのようにして、たくさんの人はそれを知る。得られた情報を総合して、自分の位置と取り巻かれた状況を確認する。
アビオニクスみたいに。渡り鳥の隊列なんかも、ちょっとアビオニクスっぽい。

アビオニクスの性質として、自分で直接触れた情報ではない、ことがある。しょうがないよね。必要な情報が取得できないから、そういうシステムを使っているんだもの。
あとは本物のアビオニクスと違って、メディアの情報は多すぎるし玉石混交だし、必要な情報が探しづらい。

得られた情報は正しいのか。僕のアビオニクスは狂っていないか。目撃したり、触ったりしていない以上、僕の前に差し出されるのは単なる情報なのだ。飛行機なら落ちている。
身体が3つくらいあって、背中に羽でも生えていたら、ずいぶん違うのだけれど。


デマもウソもある世の中で、信憑性が不明な情報を片手に時を過ごすのは、緊急時であるほど不安だし大変だ。何も知らないよりはマシかもしれないが、座禅でも組んでた方が、気組みができて変事に際してはいいかもしれない。
何ができるかといえば、びっくりするくらいできることが思いつかない。やっぱり、来世は鳥になるべきか。


ソースは常に複数あったほうがいいのだろう。一つに肩入れしないほうがいいだろう。自分で見たものでない限りは。俺的安全保障として。
情報を欲していながらも、全幅の信頼は置くべきではないのだ。

あとは。

何かを言う前に、一度情報を引き取って、腹に収めること、かしら。ウェブメディアが花開いてから、脊髄反射みたいに反芻するのが習いになっていて、即応性にこそ至高みたいな雰囲気がある。そういえば、tsudaるのもキュレーターを介した脊髄反射みたいなものだし、あれも東日本大震災からだものね。

津田さんのついったーを自らのアビオニクスにするのは悪くないし、リツイートしたっていい。要はその情報が、本当に自分の中に入ってきているのか、考えているのか、ということで、これが案外あやしい場合も多そうだ。僕の場合はね。
僕は本当に読んでいるのか。本当に考えているのか。

情報の量と信憑性の不足に文句をいっても始まらない。これが所与としなくてはいけない。僕がひとりしかいなくて、翼が生えていないのと同じこと。少しばかり、情報処理方法を改善したほうがいいのだろうな、と思う。

以上、戒めです。