2018年10月12日金曜日

「言葉そのもの」のことを考える

これはなかなか、酷いタイトルだ。
どういう言い方があるのか、考えあぐねている。

僕らは普段、言葉を使って話したり、書いたりする。
考え事もしている、かもしれない。よくわかんないけど。

一方、言葉を通じた活動そのものに、僕らは無自覚だ。言葉は運用しているだけ。
「言葉そのもの」について考えることなんて、皆無といっていい。

たとえば、車を買い換えたとする。
おんぼろな車と比べて、新しい車は調子が良い。
ハンドリングは自在だし、アクセルは踏んだ分だけ加速する。
同じ道を走っていても、車によって運転の印象はずいぶん変わる。

言葉が、ここでいう車であるならば。
問題は道ではなくて、車のスペックであるとしたならば。




なんでいつも俺にばっかり雨が降るの?という曲。
でもこれを文章にすると、その意味よりもずっとややこしい。

"Why does it always rains on me?”
肯定文に戻す。
"It always rains on me."
文法がからっきしの僕は、"does"がなくなってようやく気がつく。
あ、"rain"は動詞じゃん、と。

以下、"rain"もしくは、"It"の話。


気になって、購入して、からの、読了した、までがずいぶん長い。
最近、そういうのが多い。
「膝裏を伸ばすと万事解決!」みたいなのはあっという間に読み終わるのに。


中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
國分功一郎
医学書院
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かつて中動態というのがあった、らしい。

へー。と思って思い当たるのが、能動態とか受動態。確かに習った。
中動態もあるとか、唐突にそんなこと言われましても。

「考古学」というサブタイトルでもわかるとおり、この本は中動態の歴史を紐解くお話。こんな風に書くと、すげーむつかしそうだしつまんなそう、と思われるだろう。
たしかにむつかしい。でも、つまんなくはない。

僕らは能動態と受動態という2つの態を学んだ。する/される。byを使うとかで、能動態と受動態は入れ替えが可能だとも教わる。ひっくり返す練習をいくらかしてみて、テストに出る。
それが原因のすべてだとは言わないけれど、世界は能動と受動で表現される。
そんな雰囲気はあったかもしれない。でももちろん、そんなことはない。

「雨が降る」は、"It rains."。
"rain"は自動詞で目的語をとらない。だから「雨が降る」という意味をまるごと引き受ける。"It"は?。仮の主語だとか、そんな説明を受けた記憶がある。
これは、"rain"が中動態の残滓の一端であることを示しているという。
「雨」を主語にしたければ、"Rain fall."とも言える。これに対して、"It rains."は「雨が降る」状況を説明している。
そこでは特段の主語は必要とされない。状況を説明している文章は、能動とも受動ともいえない。
歌の中で、彼が腹を立てているのは、(いつも)雨が降る「状況」。雨粒に腹を立てているわけではない。


○たしかにカタイ本だが

勉強における退屈さに関しては、いささか私見がある。
何も知らない初学者が網羅的・総花的に勉強を強いられるときに、その学びは死ぬほど退屈だ。たぶん3万人くらい学生は死んでるはずで、もはや「恋わずらひ」を凌ぐ最大の死因といってよい。
一方、収束されたテーマで追っていくのであれば(と、それなりの興味があれば)、学びはスリリングなものになりうる。

文法と哲学って、すごく死にそうじゃないですか。網羅的で総花的で。
僕自身も嫌だなぁ、と思いながら読み始めた。読了まで時間がかかったのは、まあ、寝ちゃったからなんだけどさ。
ただ、本書は硬いテーマなのに、行きつ戻りつ、読み進めることができた(理解できたとは言わない)。写経も含め三回読んだ。
難しい話をわかりやすく書くこと、そして、ページを捲る興味を持続させる力は、テーマが収束しているということなのだろう。話を展開する。しっかりと前の話を引き受ける。次の話に繋げる。大事なことだと思う。

そして、古色蒼然としたはずのテーマは、どことなく現代と接続する。
へーすごい、おもしろかった。で終われない理由がここにある。
何か、僕がよく知っていることと、どこかで繋がっている。
そんな感触があった。

著者は、中動態は単独で定義できないと云う。本文中でさまざまに検討がなされる。
しかし、言ってしまうと「主語が座となる過程を表す態」ということになるらしい。中動態では、主語は移動する。これがポイント。
時が移り、中動態は消滅し、能動/受動の二態がもっぱら使われ、主語が移動することはなくなった。僕ら文章から主語がわかるし、わからないと不完全な文章として気持ちが悪くなる。
僕が社説に主語がないことに腹を立てるのは、完全に能動/受動の論理に嵌め込まれているということだ。
著者はこの状況を「尋問する言語」と呼ぶ。

尋問できないと気分が悪くなる社会に僕らは生きている。
文字にすると、なかなかすごいね。

そして、ひとたび問題が発生したとき、「誰が」をめぐる問いは先鋭化する。
誰が「意志を持って」それをしたのか。
僕らは「意志」をテコに、責任の帰属先を認定する作業を始める。


○「意志」という、なんだかよくわからない言葉

著者は依存症を例に挙げる。悪いことはわかっているが繰り返す。たとえばアルコール。自分の意志でグラスに注いで、口にする。意志の弱さが原因とされたりする。飲みすぎるのは(やめられないのは)「意志の弱さ」と形容される。
では、「強い意志を持ちなさい」と指導されたら、飲みすぎないか。
もちろんそんなことはない。

加えて、そもそも「純粋な意志」なんてないんだってさ。
どうも、そうなのだそうだ。僕も、え?と思ったけれども。
そんなもの幻想だと。害悪であると。意思することは過去を忘れることで、考えるのをやめることだ、と。こてんぱん。
アリストテレスを引いたり、ハイデッガーを引いたり、アレントを引いたりしながら、著者は、ぱしっと、あっさりと、云う。

意志の有無で責任を割り当てても、問題の解決に至らないケースは無数にある。
「意志」は、テコにするにはあまりにあやふやな概念だ。
尋問する言語」では、零れ落ちてしまう事柄がある。「尋問する言語」が運用される社会では、何が零れ落ちたのか理解されない。理解されないから、僕らは的はずれなことを言ってしまう。
たとえば?「強い意志を持ちなさい」、とか。



○言葉が問題なのかもしれない

たとえば昨今、いろいろな人が炎上していて、怒り、謝罪したりする。
うまく言えないんだけれど、そこに何かしらの過剰さを感じる。
問う側も、問われる側も。
ここでもし僕が、「被害者側にも落ち度がある」と言おうものなら、それは立派な炎上ネタになる。
根源的な問題に触れる言葉や概念を持ち合わせていないから、よく知る手触りの、身近ななにかを利用して表現する。すると、あたらしい誤解が生まれる。

そこで、僕らが尋問する言語を使っていて、以前よりも苛烈に運用されていることが問題だ、と言えばどうだろう。問責の、尋問の圧力が変調している、のだと。

こういうこと、ありそうなことだと思いませんか?
最近、こういうことで、すごく時間と根気を消耗したりしていませんか?



○過剰さの行き着く先は?

誰かの責任を問うとして、誰かさんの責任を「どこまで」「認定」し、問うのか。
問題を解決するために意志なんてものを持ち出して責任を割り当てているのではない。責任を割り当てる道具として、意志が使われているだけなのだ。
過失や罪は昔からある。
だから、責任を個人に確定させる作業はずっとなされていたはずだ。

死ぬほど腹を立てている人は、昔も今もいた。復讐律は、それから4千年以上が経過した現代からしても、過剰ではあれど、理解は可能なのだ。
「尋問する言語」はおそらく、その過程で研ぎ澄まされた。
「力による解決」からの移行、ケリのつけ方の洗練化。スタイリッシュでファッショナブルなソリューション。もはや力による復讐には戻らない。僕らは暴力をどこぞに預けた。
そんな変遷を想像してみる。

確かに僕らは進歩はした。一方、僕らは僕らでありつづける。
力による解決が新たな火種になると知っているくせに、問題が発生すると、時に殺したいくらいを相手を憎む。
進歩したはずの僕らは、身の内から沸き起こり続ける怒りに驚き、たじろぐのではないか。しかも困ったことに、その怒りの感覚は正当なものだと感じられてしまう。

「尋問する言語」の運用の過剰さは、「進歩した」はずの僕らにおける、ある種の先祖返りなのかもしれない。
問題を早く収束させる方向から、さらに拡張し、広げる方向へ。どんなに言語の運用が洗練されても、人の感情はそうそう変わらない。人は簡単には悟りを開けたりしない。
それは悪いことだけではない。早期に収束させることで、大事なことが捨象されてきたということでもあるのだから。



応答責任論をテーマに修士論文を書いた。ずいぶん昔のことになった。
問われたら答えなくてはいけない。それが改善のサイクルになる。
何万字も書いたのに2行で説明できちゃった。

この「ダイアログ的正義」は、「尋問的正義」である。
優れて現代っ子的でありかつ、たまらなく息苦しい。
15年前の僕は、もっと問責されるべき巨悪がどんどん尋問されればいいと思っていた。それで世界が良くなると思っていた。
今でも、尋問することで世界が良くなると考える人はいる。一方、僕は自信がない。
今や四六時中、誰かが誰かを尋問しているのだ
無数のハウリングとノイズの中で、必要な声を聞き分ける。
どれがノイズで、どれが聞かれるべき声か。僕の声はノイズか、声か。

「尋問する言語の使い手」たる僕らは、かつてない消耗と生きづらさを抱えている。
過剰な尋問が行われる一方で、何かが零れ落ち続けている。

中動態の「再発見」は、ものごとを解決したりはしないし、解決の手段を提示しない。
理性的な態度は、時と場合により発揮され、時と場合によれば、そんなものさっぱりと忘れて、復讐の悪鬼に戻れる。今後もそれは変わらない。


この本は、意識せずに普段使っている言葉が、意図せず他者を尋問していることを教えてくれる。もうひとつには、普段使っている言葉によって欠落する、何かがあることを教えてくれる。それらは本当に、指摘されない限り気が付かない種類の事柄だ。

こういう本を読んでも、新しく何かができるようになる気はしない。生まれ変わって生きていける気もしない。僕はちょっとおじさんになったから、簡単にそんな気持ちにはならないのだ。
ただ、自明と思っていた世界にクラックが入る。
僅かなクラックごときが、どれだけ世界を変えられるのか。
知らないけれども、クラックすら入っていない世界よりは、いくらもマシではないか。