なんだかね、という話。
新聞を読むというお仕事がある。月番制で回ってくるこの仕事。
4紙を斜め読みして、林業関係記事を蛍光ペンで囲って、ページに付せんを張る。
このアナログ加減は嫌いじゃない。
最近はやはり、西日本豪雨に関する記事をたくさん拾い上げることになった。
降り始めのとき、九州北部みたいなことにならなければよいが、と思ったが。
犠牲の話、インフラの話、大雨の原因の話、ボランティアの話。
新聞を読むと、一口に災害といっても無数の切り口があることを思い知らされる。
すべての切り口を拾い上げるくらいならば、新聞まるごと読めばいい。
この場所で、知るべきことはなにか。そんなことを考えながら、できるだけ客観的に、記事を拾い上げる。
記事の拾い出しをしながら思うことがある。
端的に事実だけを述べている記事と、書き手の意見が含まれている記事がある。
意見、をつきつめると、社説になる。社説は社説と書いてあるからわかるけれど、そうでなければ記事を読んでみなければわからない。
割と新聞は好きなほうだ。朝日小学生新聞で、『落第忍者乱太郎』を熟読していたので。
小学生新聞を卒業したあとしばらく、社説が好きだった。世間に物申す、正しいおじさんみたいなイメージがそこにあったからだ。
「社会の木鐸」という存在を、僕自身が信じていたのだと思う。ミレニアムの新年、高揚感を持って朝日新聞の力の入った論説を熱心に読み込んだことを思い出す。
社説には主語がない。
誰かに言われたのか、自分で気がついたのか、あるときそのことを知って、少しがっかりする。形而上学的「正しいおじさん」なんていなくて、ずるくて怠け者で、怒り、悲しむ、僕と同じような人が、この文章を書いている。たぶん。
そんなことに思い至った。考えてみると当たり前のことなんだけれども。
僕は自分の木鐸性(そんな言葉はないのだけれど)を信じない。
だから、同じように他人の木鐸性も信じない。
自らを「社会の木鐸」だとか、臆面もなく標榜する輩なんて疑ってかかるべきだ。
始めから『週刊金曜日』とか『SAPIO』みたいなスタイルだったら、あんまり人に指弾されることはなかっただろうに。
話が脇道にそれた。社説は置いておいて。
新聞が力を入れて書いているのは、意見を含んだ記事のほうなのだ。
たとえば、被災箇所をケース・スタディにする記事。
順序立てはこんな感じ。
事実たるアクシデントがある。誘因は大雨としよう。
素因として、崩れやすい事情があったりする。
要望があったのに、対策が取られていなかった経緯があったりする。
そして、最後に住民の声だ。
「ダムさえあればよかったのに」「ダムができたから、大丈夫だと信じていたのに」。
構成は判を押したように同じ。斜め読みをしてうんざりする。
このスタイルは業界では優れて一般的らしい。
テンプレートでもあるのか。勝手に記事を生成してくれるAIでも飼ってるのか。
記事は、記者、編集者あるいは社によって構成されている。
どんな記事だって、程度の差こそあれ事実の継ぎ接ぎだ。どの材料をどの場所に使うかは記者に任される。単に編集と呼べばいいのか。
一つ一つは事実でも、コラージュの性格上、時に総体としてなんらかの歪みが発生する可能性はある。
そのとき、文末を地域住民の声で締めるのは、書き手にとっては「逃げ」の手になる。
記事のどこかに事実誤認があっても全体の免罪として機能する(住民の意見だから)。
そして、記者・社の意見を隠匿する(なってったって住民の意見だから)。
さらには、何ごとかを云った気にもなるだろう。
結論として、このテンプレートは優れている。
膨大な情報の積み上げと足で稼いだ情報があり、公的機関や学識経験者との接点を持ち、構成・校正がきちんとなされていて、責任の所在が明確で、社会的信用があり、公正さを旨としている。新聞とはそんな存在と認知されている。
しかし、本質的な仕事は、無数にある「まとめサイト」とどれくらいの差があるだろう。念の為云っておくと、まとめサイトでもこの種のテンプレートはよく利用されている。
そしておぞましい結論を引きずり出しているのを目にしたりする。
テンプレートは事実か否かはもちろん、論理的な妥当性すら担保しない。
ただひたすらに、使い勝手がいいのだ。きっと。
不満があるのは、記事の正確性ではなくて、書かれ方の安直さと、ケツのまくり方だ。
書き手の能力ではなくて、結論ありきの姿勢に起因するものだ。
彼らはやはり何ごとかをいいたいのだ。
だから、地域住民の影に隠れて、こっそりと意見を開陳する。
こういうのってずるい。
僕はそう思ってしまう。
会社の名前でしっかりと事実にコミットできるのは新聞くらいしかいないし、淡々と事実を積み重ね、報道していくことがあるべき木鐸ではないか。
それでも言いたい意見があれば、論説でも社説でも別で云えばいいじゃない。
どうもやっぱり、新聞はこれまでの役割を終えつつある。
僕はそのように思うのですけれども。
新聞を読むというお仕事がある。月番制で回ってくるこの仕事。
4紙を斜め読みして、林業関係記事を蛍光ペンで囲って、ページに付せんを張る。
このアナログ加減は嫌いじゃない。
最近はやはり、西日本豪雨に関する記事をたくさん拾い上げることになった。
降り始めのとき、九州北部みたいなことにならなければよいが、と思ったが。
犠牲の話、インフラの話、大雨の原因の話、ボランティアの話。
新聞を読むと、一口に災害といっても無数の切り口があることを思い知らされる。
すべての切り口を拾い上げるくらいならば、新聞まるごと読めばいい。
この場所で、知るべきことはなにか。そんなことを考えながら、できるだけ客観的に、記事を拾い上げる。
記事の拾い出しをしながら思うことがある。
端的に事実だけを述べている記事と、書き手の意見が含まれている記事がある。
意見、をつきつめると、社説になる。社説は社説と書いてあるからわかるけれど、そうでなければ記事を読んでみなければわからない。
割と新聞は好きなほうだ。朝日小学生新聞で、『落第忍者乱太郎』を熟読していたので。
小学生新聞を卒業したあとしばらく、社説が好きだった。世間に物申す、正しいおじさんみたいなイメージがそこにあったからだ。
「社会の木鐸」という存在を、僕自身が信じていたのだと思う。ミレニアムの新年、高揚感を持って朝日新聞の力の入った論説を熱心に読み込んだことを思い出す。
社説には主語がない。
誰かに言われたのか、自分で気がついたのか、あるときそのことを知って、少しがっかりする。形而上学的「正しいおじさん」なんていなくて、ずるくて怠け者で、怒り、悲しむ、僕と同じような人が、この文章を書いている。たぶん。
そんなことに思い至った。考えてみると当たり前のことなんだけれども。
僕は自分の木鐸性(そんな言葉はないのだけれど)を信じない。
だから、同じように他人の木鐸性も信じない。
自らを「社会の木鐸」だとか、臆面もなく標榜する輩なんて疑ってかかるべきだ。
始めから『週刊金曜日』とか『SAPIO』みたいなスタイルだったら、あんまり人に指弾されることはなかっただろうに。
話が脇道にそれた。社説は置いておいて。
新聞が力を入れて書いているのは、意見を含んだ記事のほうなのだ。
たとえば、被災箇所をケース・スタディにする記事。
順序立てはこんな感じ。
事実たるアクシデントがある。誘因は大雨としよう。
素因として、崩れやすい事情があったりする。
要望があったのに、対策が取られていなかった経緯があったりする。
そして、最後に住民の声だ。
「ダムさえあればよかったのに」「ダムができたから、大丈夫だと信じていたのに」。
構成は判を押したように同じ。斜め読みをしてうんざりする。
このスタイルは業界では優れて一般的らしい。
テンプレートでもあるのか。勝手に記事を生成してくれるAIでも飼ってるのか。
記事は、記者、編集者あるいは社によって構成されている。
どんな記事だって、程度の差こそあれ事実の継ぎ接ぎだ。どの材料をどの場所に使うかは記者に任される。単に編集と呼べばいいのか。
一つ一つは事実でも、コラージュの性格上、時に総体としてなんらかの歪みが発生する可能性はある。
そのとき、文末を地域住民の声で締めるのは、書き手にとっては「逃げ」の手になる。
記事のどこかに事実誤認があっても全体の免罪として機能する(住民の意見だから)。
そして、記者・社の意見を隠匿する(なってったって住民の意見だから)。
さらには、何ごとかを云った気にもなるだろう。
結論として、このテンプレートは優れている。
膨大な情報の積み上げと足で稼いだ情報があり、公的機関や学識経験者との接点を持ち、構成・校正がきちんとなされていて、責任の所在が明確で、社会的信用があり、公正さを旨としている。新聞とはそんな存在と認知されている。
しかし、本質的な仕事は、無数にある「まとめサイト」とどれくらいの差があるだろう。念の為云っておくと、まとめサイトでもこの種のテンプレートはよく利用されている。
そしておぞましい結論を引きずり出しているのを目にしたりする。
テンプレートは事実か否かはもちろん、論理的な妥当性すら担保しない。
ただひたすらに、使い勝手がいいのだ。きっと。
不満があるのは、記事の正確性ではなくて、書かれ方の安直さと、ケツのまくり方だ。
書き手の能力ではなくて、結論ありきの姿勢に起因するものだ。
彼らはやはり何ごとかをいいたいのだ。
だから、地域住民の影に隠れて、こっそりと意見を開陳する。
こういうのってずるい。
僕はそう思ってしまう。
会社の名前でしっかりと事実にコミットできるのは新聞くらいしかいないし、淡々と事実を積み重ね、報道していくことがあるべき木鐸ではないか。
それでも言いたい意見があれば、論説でも社説でも別で云えばいいじゃない。
どうもやっぱり、新聞はこれまでの役割を終えつつある。
僕はそのように思うのですけれども。