あっというまに12月も終わりで。昨日、今年一年どうだった?なんて訊かれましたが、年が終わる実感もないまま過ごしています。
そうはいっても黒豆ができている。なんとかお正月に間に合え。ということでお豆にする。
今どきのやり方ではないと思うけど、当方は未だに殻を鈍器で叩き潰したり、足踏み脱穀機でタコ殴りしたりしてお豆ちゃんをサヤから出し、唐箕にかけてカスを吹き飛ばし、手仕事でより分けます。今どきではないね。
コスト的に合ってないとか、無粋なことは言わないで。実際合ってないんだから。
もうすぐ47回目の正月を迎える予定だけれど、黒豆が大豆と知ったのは一昨年でした。
黒豆というのはジャンルではなくてサブジャンル。虫食いについても、様々な形態があることも知った。外縁部を食うやつ、芯を食うやつ。種類が違うのか、好みが違うのか。
選別の話。お椀でお豆をひとすくい。お盆にばらまく。割れていたり、虫食い、未成熟、不定形なお豆たちを無心で捨てる。お盆に何個が乗っかってるのか知らないけれども、感覚的にだいたい150個くらい捨てると黒っぽくなる。だいぶ目に見えて少なくなる。
ハネる豆だって食べられないことはない。味噌だったら割れ豆は平気で使う。でもお正月は縁起物だからハネる。きっとスーパーではうちよりもずっと形の揃った艷やかな漆黒の黒豆が売られているはずだ。うちよりもずっと厳しく選別をしているということなんだと思う。
指先はずっと動いている。眼精疲労に悩まされつつ目も動いている。
でも頭はひまなので、妄想の翼を全開に広げ、僕は旅に出ている。
この作業は当方の要求を満たない者たちを捨てていく残酷な作業である。落伍者にキャッチアップはなく、「みんな違ってみんないい」という地平でもない。僕は執行者として、帝王として、冷酷にお豆たちを選別し、排除する。
君たちは腐ったリンゴだ。違う、お豆だ。
お豆ちゃんは民主主義的ではなくエリート主義的な洗礼を受け、僕らの食卓に並ぶ。この作業、何かしらの感銘がある。
揃えたところで味は変わらない。お豆はお豆だ。そんなに揃えなくてもいいじゃないとか思ったりもする。
ただ、別の感銘もある。黒が徐々に濃くなる過程。あいまいだったものが何か収束していく過程を見ているような気がする。
揃えられた黒は美しい。何かしらの強さを持っているように思える。
権威主義的になる必然性、
あるいはエントロピーの法則に抗う意味みたいなものがー
お豆の間でひっそりと語られているのかもしれない。いつか、お豆的な革命が起きて帝政が打倒されるかもしれない。いつか、お豆的民主主義が実現されるのだ。そのころには、不揃いのお豆たちだけが店頭に並ぶだろう。漆黒の黒豆はハラスメント・レイシズムの象徴として指弾され、不遇を託つことになる。
という妄想をしてみた。
穀物の収穫はロスが必然的につきまとう。収穫や乾燥、脱穀なんかの作業中ににこぼしたり、サヤに入ったお豆が勝手に弾けたりする。
稲刈りをしていたとき参加者の方が刈った稲穂が散乱している様をみて、お茶碗に乗るご飯は一期一会の出会いですね、と仰っていた。そうなんですよね。
だいたいは収穫できているし、だいたいは商品になっている。でもこの「だいたい」っていうのがこの仕事の曲者なんだという気がしている。歩留まりを上げるって大事だと思います。小規模生産者の僕らにしてもそうだし、大規模生産者であればなおさらでしょう。1%で何トンってこともあるだろうから。
オールドスクールな新米小規模生産者的な愚痴を言わせてもらえば、疲れていて一粒しかお豆が入っていないサヤに直面すると、大事、っていう気持ちが少し遠くなるような気がしています。試されているというか、現実に戻るというか。
僕が拾い上げるこの一粒は何グラムなのよ結局、っていう気持ちになる。
落ちている稲穂を拾い上げたり一粒だけ入っているサヤを割る丁寧さは、たぶん尊い。でもそれがどれほど尊いのか、よくわからない。
拾い上げたお豆は、結局選別され捨てられてしまうかもしれない。そもそも、拾い上げる足腰はけっこう痛んでもいる。
作業をしながら世の中にはふた通り以上の現実があるよなあ、って思うんです。
そういうことを考えている僕はまだ、米俵に腰掛けた水戸黄門を叩き出すような形而上学的お百姓さんにはなれていない。そもそもなれるかどうかもわかんないんだけど。
そういう妄想もあった。
まあ、やっていることは結局、豆の選別なんですけど。