年末なのに年末にならない。重い宿題残しちゃった気分だ。
イアン・ワトキンスが死去したニュースを聞いて、胸がチクリと痛んだ。
まず最初に言っておくと、イアンがやったことについて酌量の余地は一切ない。彼は牢獄にぶち込まれるべきことをやったし、その行為に関して一切許される内容を含んでいない。
それとして、2000年代中盤はLostprophetsをよく聴いていたことは個人的な事実として残っている。2010年?それくらいにイアンが逮捕されたニュースを目にして、そっとライブラリから削除した。15年くらいは聴いていなかった。
ニュースを目にして、Radditを見に行った。
なんかすごくわかるコメントばかりで、ちょっと気分がほっこりした。
僕がやったことは彼らとよく似ている。
僕がやったことは音楽ファイルの削除。CDはまだ実家にある。
でもその行為自体、少し後ろめたい気持ちでいた。
なぜ後ろめたいんだろう?
児童性愛者の音楽だから?犯罪者の音楽だから?
改めて考えてみる。たぶんどちらでもあるのだろう。
僕自身が、何かしらステートメントを残せばもう少し後ろ暗い気持ちにならなくても済んだのか。問題はそういうことなのか。少し違うような気がする。
犯罪を犯したから、世間体が悪いから、そして僕のライブラリに置いておくのはなんとなく気分が悪いから、僕はファイルを削除した。
そして、その削除の判断にあたって、ファイルの中の音楽への評価を脇に置いた。
後ろ暗い理由はたぶん、これなのだろう。
僕は、音楽に対しての評価を隠し、手近な社会的正義を召喚して振りかざした。
僕自身の欺瞞や卑怯さを、イアンの罪状を使って、こっそりきれいに埋め立てたのだ。
きれいに埋め立てて、蓋をして。
それで終わりと思うなよ。
イアンの死に接して、思い出されたのはその音楽の強度だった。
屋根の上から飛び出せ。身の中のあらゆる蛮勇を奮って。
日本語話者の僕としてはそういう意味として受け取った。
当時、20代後半の独り者にはそれは強烈なインパクトだった。
2006年くらいの僕は知恵も打算も蛮勇に優っていた。蛮勇を振るう体力もなかったし、そもそも恵まれていた。
だから、自分にないものを探すような気持ちで聴いていたように思う。自分ができない飛躍をこの歌に仮託していた。
だから、15年くらいの時を経て、まるで昨日の続きのようにこの曲が聴けてしまった。
僕はもう少し姑息で卑怯かもしれない。その瞬間だけを切り取ればセーフ、みたいな。
前後関係を切り落とした、ただ、その瞬間の思念です。みたいな。
そうであれば、クリーンなのか。
違うだろう。
そんな種類の過ちは世の中にごまんとある。そして彼の被害者が今、この世界・この瞬間に世界のどこかにいる。
僕はそのことを忘れるわけにはいかない。
一方、それを高レベル放射性廃棄物みたいに取り扱っていいのか。誰も触らない、宙吊りの存在として、僕らはきれいさっぱり忘れることができるのか。
それも違うのだろう。
どんな骨でも誰かに拾われるべきだとも思う。
焦点はもう絞られている。
僕は、この骨を、どう扱うべきか。
考えるべきことははっきりしている。