置物稼業に勤しんだ先週。
何も話すな、と言われると、なんだかなと思わなくもない。何しろ眠いよね。置物が寝てても気にしないと思うんだけど。
なんだか選挙が近づいていて、口論乙駁の門外で戦わされる舌戦が続いています。コミュニケーション哲学の先生についていて、何一つそのエッセンスを吸収しなかった僕からすると、なにが起こっているのかさっぱりわかりません。
いつかも、なんどでも云ったように、言葉がこんなにも氾濫するなんて、20数年前は思いもしなかった。場が壊れた。あるは場が飽和している。そんな感覚だ。
ただし、語られていることはそんなに珍奇ではない。機械が生成するものも含めて。多くは昔からあった問題の、別の局面・側面について語られる。そんな場は、いつか収まるだろう。飽きることでそうなるのか、技術がそうさせるのかよくわからないけれど。
僕らはたまたまここにいるのだ。縁あって。さまざまなあくてぃびてぃーをしているから、総じてなんだか時間はない。時間がある人も、こんなくだらないことで、ということで時間がないというと思う。あくてぃびてぃーに耽溺している人もいると思うけど、いすれ、まとめろや、という話になるだろう。
そのときに、本当に大事なことの話ができるのか、あるいは「大事なこと」そのものがオミットされてるのか。それはよくわからない。
ただ、今に生きる僕たちは、あの頃はまったく情報過多な時代だったよね、と振り返る日が来るのだと思います。そしてそれはまったく大したことではなかった。昔からあるあのことについて、ずいぶんいろんな話があったよね、ということなのだろうと思います。
その上で、大事なことは「掴んだ手は離さない」ことではないでしょうか。良きにつけ悪しきにつけ。インフルエンサーである前に、僕らは主人公であったはずです。僕らが僕らとして求め、掴んだ手を大事にしていく。後年、後悔することがあったとしても。
いかん、市町村の広報みたいなことを言ってる。