サパは首都ハノイから汽車で8時間、ラオカイ駅から車で1時間。カマウから直線で1,500km。ルート検索の大家、googleさんによると2,037km、徒歩415時間だそうだ。僕はカンボジアとタイとラオをぶちぬいて歩くらしい。「注意-このルートには歩道のない道が含まれている可能性があります」…歩道のない道、とな。
いや、コンピュータというやつはまったく愚直でかわいいやつですねいい加減にしろ。
標高1,600mの街。山の中だ。冬に雪が降るわりとベトナムで珍しい地方。それでもバカンス大好きフランス人がこの場所を発見した、という。
発見した、というのがなんとも好い。知られていたけれど、それまではとくに美しいとは思われていなかった。
日本でも北アルプスや上高地はイギリス人宣教師のウエストン卿が発見した、とされている。と習った。それ以前の記録と言えば佐々成政が苦労して厳冬期の北アルプス超えたよ、くらいのものだ。
キレイな景色である、と外から来た人に再発見される。住んでいる人はわからない。
案外、そういうものかもしれない。
というわけで、現在のサパは外国人の観光地/保養地と化している。ベトナム最高峰のファンシパン山がある関係でトレッキング用品の店も立ち並ぶし、おされなバーもある。
そしてここには5つの民族がいる。こんなに民族服の人たちがたくさんな空間にいるのは生まれて初めて。サパの街にいる少数民族のほとんどは女性。男性はほとんど見かけない。子どもを背負って、売り物を背負って、必死に声をかける。
黒モン族、花モン族、ザオ族の人たちがいる。頭に赤い帽子を載せたザオ族。中華服のような鮮やかな衣装の花モン族。ちょうどなんちゃらフェスティバルの期間。いつもは日曜だけのマーケットが連日開かれていた。いやぁいいタイミングに行ったなぁ。
そしてここで大量の布製品を買うことになるとは夢にも思わなかった。
トレッキング。約10km、4時間くらい歩いた。壮観な棚田風景。棚田は水の管理が大変そう。季節はちょうど春。沢からずっと水を引っ張っていく水路があちこちにあった。田んぼに水をはったり、代かきしてたり。
案内してくれたのは黒モン族の女の子。英語がめちゃくちゃ上手。モン語、ベトナム語、英語のトリリンガル。
足元はサンダル、携帯電話を使いこなし、手には日傘。すぐれて現代的である。日傘については日差しが強すぎるから、と云っていた。目に悪いと。確かに。
そしてこれ。すごくね?
ドラクエの世界ですよ。てっぺんが貯水池ですね。考えた人すごいわ。そして造った人すごいわ。この労力たるや、凄まじいなと。
外人も多いけれど、ベトナム人・キン族と思しき観光客もいる。昼食を取っていた時に見かけた。子連れでトレッキングをしている様子の団体。子どもが食べるのに飽きて遊んでいる。
傍らでは、同じくらい歳の黒モン族の女の子たちが必死に布の小物を売っている。民族服の上に学校のジャンパーを羽織って。今日は学校はどうしたの?と訊くと、今日は休みだよ、だって4月30日だから、だそうだ。4月30日は戦勝記念日。
だからバッグ買え、だそうだ。いや、それとこれとは。
かたや洋服を来て訪れた子ども、そして必死におみやげを売る子ども。双方、相手がどのように映っているのだろうな、と考える。視線が気になる。
黒モン族の村に行くとわりかし普通。ベトナム的農村。電気も通っている。
I'm proud of our ethnic clothes..ってガイドのお姉ちゃんが説明した直後にガイドのお父さんがウィッウィッとTシャツ短パンでバイクに乗って登場したのにはw。
明治村的テーマパーク的なアレか、これは。実際、軒先の洗濯物も普通ですね。
普段、男衆は農作業に従事していて、あんまり物売りはしないそう。おっさんの話もきっと面白いんだろうな、と思うんだけれどこのおっさんくらいしか会わなかったので、その話はなし。棚田作りの苦労とか、いろいろあると思うんですよ。本当は。
布製品・刺繍の種類が豊富。かわいい。黒モン族の黒とは藍の黒だという。ガイドの女の子は民族服を直接着ると色落ちして肌が黒ずむんだ、と下に長袖Tシャツを着ていた。
ベトナム語を通り越して英語をべらんべらん喋る物売りのおばちゃん、 Pay for me !ってどこで習ったんだ。まったくけしからん。
というわけで大量の布を仕入れて帰ってきた。どうするつもりなんだろう、僕は。そんな子じゃなかったはずなのに。90%の喜びと10%の悔恨。あああ、幸せ。ベトナム雑貨店でも開こうか。
藍染のストールはかこいいぜ。400円くらいだぜ。
うん、なんというか。たくましさを切実に感じたな。かぁちゃんは強いぜ。
ジェイン・ジェイコブズという人は、交流を完全に途絶した、いわゆる「未開の民族」などいない、と云っている。たぶんジェイコブズ先生は藤岡弘、および探検隊の皆様にケンカを売りたかったんだと思う。有用性の高い技術は残り、低いものは捨てられる、ということが繰り返されてきた。どんな場所でも交流はあった。
たとえば花モン族の民族服は、僕に言わせれば派手な中華服だ。もとは苗族とされる。黒モン族と花モン族は近接し交流しているにもかかわらず、それぞれの装束は残っている。それは有用性の基準が違ったんだろうな、と想像するしかない。平たく言えば好みというか。
傘さしたり、洋服を着たり、ミュールを履いたり、バイクに乗ったり、っていうの伝統文化の破壊で、均質化しつつあるということだろうか。そうかもしれない。でもジェイコブズ先生のいうように、ずっとそうやって外からの交流に曝されてきたんじゃないか。あるべき「固定された文化」なんて、そもそもなかったんじゃないか。だとしたら、「守るべき文化」とはなんだろう。僕らの目を惹くものはなんだろう。
キン族の子どもとモン族の子どもがいつか同質化するのか。モン族の子どもがおかあさんに甘えながらコーラを飲む日が来るのか。そんなことを考える。
本当のところ、彼女たちが本当に「誇りをもって」いるのかはよくわからないし、僕が彼らの生活をこうして覗くことが妥当なのか、っていうのも、実はわからない。なんだかそれは上から目線というか、あちら側とこちら側に見えないけれど、自明な線を引いているような気がするのね。
誰だってできるなら雪の降る冷たい冬の日に藍染めなんかしたくないし、暖炉の前に座ってブランデーを片手にシャム猫撫でてたいでしょ。
とはいえ、彼女たちはとても輝いて見えた。売り物を担いで、子どもを背負って坂を上がる。そして、上手でも拙くても、堂々と英語で売る。ベトナム語で喋りかけると、実際、英語の方がベトナム語よりも楽なのよ、というモン族のおばちゃんがいたりとか。
「努力の物語」とかいうロールモデルがキラキラしてるように見せるのか。
もし彼女たちの輝きの源泉や自身が、作り出された風景や織物にあるんだとしたら。自分たちの文化を、「享受するもの」から「活きるための道具」に変えているということだ。その文化の役割が変質しているということでもあるけれど。
そう考えるとたぶん僕や外国人によって「見られる」ことも、彼女たちの在り方を少しずつ強化するだろう。あのキョロついている外人におらが村の素敵な布を売って進ぜよう、と。
引っかかりましたけれど。素敵です。
だから、彼女たちは弱者じゃない。技術をもった人たちで、雄弁なスピーカーでもある。
ライフスタイルは変わっても、彼女たちのステップで踊っていくんだろう。
僕が勝手に気にしている「視線」なんて、たぶん誰も気にしない。そこになにが潜んでいるのか、とかこの先どうなるのか、っていう考えこそ暇人の道楽で、「視線」の話を再生産している、のかもしれないな。
そんな感じで、彼女たちはくるくると踊り続けている。
いつしか、彼らはベトナムから離陸してしまうんじゃないか、そんな気さえする。
本人たちさえ気が付かないうちに。
なんだか知らないけれど、勇気づけられた気がする。