2009年11月7日土曜日

山仕事の愉しみ


調査箇所は金北山山頂。防衛省レーダー直下。 
基本的には危ないところにしか施設をいれないので 
調査箇所は必然的に危ない箇所になる。 
因果な商売ですね。おほ、高いところ大好き。 

標高差700m分を、ほぼ直登だったので久しぶりに息が切れた。 
タバコやめようかと思うくらい息が切れた。 

標高800mくらいから佐渡はブナ林帯。低いけどね。 
完全に極相状態で新潟県でもちょっとめずらしいかもしれない。 
いよいよ冬の山になってきちゃったな。 

ブナ林といったらこいつでしょう。 
ほかにもムキタケ、クリタケ、ヒラタケ等々。 
ナメコは僕が全部せしめた。 
バターソテーとか、うまいっすかね?と上司に聞いたところ 
煮物だなんだと百家争鳴の惨状を呈したので 
ここはシンプルにみそ汁。とした。 
ダシもしっかりでて、歯ごたえもあり美味美味。 
きのこは腎臓に負担がかかるのでたくさん食べてはいけません。 

もちろんちゃんと仕事もします。 
崩壊斜面の上部を吹付法枠でカバーして、下部崩壊を土留工5段で止めている。 
土留は鋼製枠で現地発生材を使用。つーかコンクリ打てない。こんなとこ。 
錆びているけど設置から20年にしてはまあまあ。施設の機能としては十分。 
よくこんなとこやったよね。 
これ改修するのはもう不可能じゃないのかね。 

一番上にいる青いアイツは佐渡のどこからでも見えてしまう 
まるっこいアイツです。 
現在あたらしいレーダーを築設中。 

異物感というより、滑稽な風景。 
台所にPA卓とか、茶の間にトカレフとか、 
セーラー服と機関銃とか、林の中にミラーボールとか、まるで判じ物の世界。

2009年11月2日月曜日

東口総電器店化計画

ん。まあ、昔からそんな感じもしたけれど。
なんの話かというと、池袋三越あとのヤマダ電気。
こんなに電器店が軒を並べて、みんなペイするのかしらん。

これだけあると他店の値段を確認する気にはならない。
入ったところ買ってしまう。頑張れるひとは頑張れるのだろうか。
オレにはがんばれない。
というわけで電子辞書を買いました。
ちょっとうれしい。頑張ってペーパーバック読みます。

2009年9月27日日曜日

ヨハネによる福音書

わたしの愛にとどまりなさい。
これらのことを話したのは、
わたしの喜びがあなた方の内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

持って帰ってきた結婚式次第に書いてあった。

あなたがわたしを愛していたことは、わたしは気がつかなかった。
あなたの愛を、わたしは受けていたのか。
そうだったのか。
愛されていたことに気がつかなかったとしても。
事後的に聞かされる、届かなかったメッセージ。
事後的だからこそ、より強く届くように思える。

よい結婚式だったんだよ。

2009年9月26日土曜日

武田邦彦の最大の欠点は、その言葉に希望が持てないことだ。

根拠を掘り崩す作業は、大切なことかもしれないけれど、夢がない。

値相対的な虚無感とそこはかとない怠惰のにおいがする。

彼のことはどうでもいいけれど、 ま、導入にはよい。


群馬県の決議に関しても、通ったらどうなるか。
勝利の余韻とともに、ゆるい虚脱感と退嬰感が漂うだけじゃないのか。
経団連の主張が通っていたらどうか。 救う会ならどうか。 同じことだ。


反応としては、シェルショックに近くて その決定自身は彼らをどこにも導かない。
後に引けないという、へんてこな決定主義だけがそこに残る。
たぶんそれはしんどいし、もしかしたら、甘美な感情かもしれない。
でもやっぱり、それは彼らをどこにも連れて行かない。


ただ、 ふつうに生活できればよくて、
たんともうけられればよくて、 愛する人がかえってこればよい。 
それだけなはずでしょ。ほんとうは。


その被害者に固着している人を引き剥がすのは難しい。
シェルショックの穴倉から追い出すのは難しい。

追い詰めるのではなく、固着した人を救い出す方法を考えるのが大事だ。

2009年4月5日日曜日

おそらく日本で250人くらいしか見たことないと思われるが 水利科学という雑誌がある。普段は水文学系(「みずぶんがく」ではない) の投稿論文が載る雑誌である。 塚本良則、といえば母校の元先生でもあるんだけれど 「日本人は何故「山の木を伐ると洪水になる」と考えるようになったのか」という 刺激的な論考があった。 興味深いポイントは「緑のダム」という単語だ。 確認しておくと、森林が災害との関連性において果たしている機能は 「出水の平準化」である。森林とは摩擦物だ。 山に振った雨が抵抗をくぐりぬけることで出水量は量的・時間的に平準化される。 当然のことながら、森林は水量について人為的な調整をかけるものではない。 だから、利水や洪水防止を目的とした機能を森林に期待してもちょうどよくはきっとならない。 塚本は「緑のダム」や「森林」という言葉そのものが魔力を持ち始めている と心配している。ちょっとそうかもしれないと思うふしもある。 農業サイドからみて、古来山の神を祀るというようなことが行われていた。 たぶんその裏側にあるのは前に述べた、水量の平準化への経験則であろう。 その後、科学の発展により脱魔術化されて来たけれども、 ここに来て再魔術化されているのではないか、というのが言いたいことだと思う。 塚本は研究者だから今の現状を苦々しく思っているのかもしれない。 治山や砂防、水利などの人工施設は森林の代替物にはならない。 でも、同時にあまりにも公共投資ででっかいものを作ってしまうことにも抵抗がある。 残念ながら、公共事業に対して疑問符が提示されたいるから、
実は魔力を持っているのではなくて、公共事業が敬遠されているということに過ぎない、とも言える。 危険な匂いがするのは、魔術化された森林に「ダム」という機能を投げてしまう 可能性があることだ。 必要と判断されたものについてはその必要性に対して責任を持たなければいけない。 逆に「投げて良い」と(ひそかに)判断したものは大した必要性などないのかもしれない。

2009年1月20日火曜日

公共事業について

ダムを作ればいつかは満砂する。 治山の考え方からいえば、土壌の流出と防いでいるし 山脚も固定できているから目的は達成されることになる。 保全対象としての森林は守られる。 でも森林の中の状況は刻々と変化する。 大水で渓流なんて簡単に変わってしまうし 地すべりがおきれば、森林の地形は変わってしまう。 たとえば、農地や宅地とは違って林地はその形状が変わりやすいし 変わっても実生活でそんなに影響がない場所ではある。「粗放」な場所だ。 森林内にダムを置くということはある意味、「現況の固定化」である。 川はここ、森林はここ、という風に動かないようにクギ打ちしてしまう。 「粗放」な管理になっている理由は、「密な管理をすると割に合わないから」だ。 生産性が低い場所にはそれに見合ったコストで管理を行う。 僕には「現況の固定化」は管理コストの増加を招くのではないかと思う。 現況の森林を保全する役には治山事業は確かに立っている。 でも構造物があってもなくても山は山なんだ。 時間軸でみた運動体としての森林を考えると、別にあってもなくても たいした問題ではないのかなぁと。