2014年1月11日土曜日

森を測る、ということ

林学という学問が、実にいろいろなことを数えたり測ったりするのに気がついたのは3年生くらいのときだった。

木の太さ・高さを測る/本数を数える/広さを測る/年輪の数を数えたり、間隔を測ったり。多い、というよりも、もはやそれが過半ではないか。友人たちが研究室に所属し、各々なにごとかを数えはじめているのをみて、少しだけ慄然とした。やべぇ、そうだったんだ、おれなにも数えてないや。
いつまでたっても取りまとめにかからずにモモンガを追いかけまわしたり、深夜にピアノを弾いている友人の存在が、どれほど僕の心の支えになったことか。
そんなことで、僕は林学が計測が仲良しだなんて考えても見なかった。森林計測学という講座があって、ずいぶん古臭い名前だな、と思っていたくらい。

ほら、森林っつうのはアメニティだよ、感じの良さだよ、そんな風に思っていたもんだから、測量学の授業なんて小馬鹿にしてとらなかった。後年、大汗をかきながら測量するだなんてね。

人生とは味わい深いものです。



そんなわけで林学は計測とずいぶん縁が深い。他の学問をろくにしたことがないので比較はできないけれど。哲学はそんなに測らなかったな。
なんでそんなに測るのか。ずいぶん図体の大きい連中を相手にしているから、ということもあるだろう。たいていの木は、僕らよりもだいぶ大きい。たいていの林は、すげえ数の木がある。たいていの林は、すごく広い。たいていの山は行くのがけっこう大変で、見通しが悪い。
木は人にとって、いささか扱いが面倒な図体と住まいをもっている。そんなことで、測ろうゼ!という欲望に駆られる人が多かったのだろうか。

 

ヒマでしょうから音楽でもお楽しみ下さい。
冬の森に入ると、頭のなかにいつもこれがかかる。冬の森のテーマ。


関連して林学は統計的手法をよく使う。経済学とか社会学的な統計みたいに小難しいことはあんまりない。昔ながらの標識再捕獲法、です。扱う数が多すぎて、全部測ったら人生が終わりかねない。サンプルをとって、全体を妄想する。

統計的な意味で木が便利なのは、人間みたいにトレンドや趣向に流されないことだ。オランダ人は現在いちばん平均身長が高い国なのだそうだ。183cm、とある。ところが19世紀はそれより15cm以上低かったらしい。それでもおれよりでかいけどな。
ライフスタイルや栄養状態で人のサイズは変わる。食べ物だって趣味だって、贔屓のスポーツチームだって、支持政党だって、わずかなうちに変わってしまう。人はよく変わるから、頻繁に調査しないといけない。
一方で、木はあんまり変わらない。気候変動の影響でちょっと育ちが変わってるのかもしれないし、そのうちスマホをいぢりだす可能性も排除しないけれど、まあ、そんなに変わらない。なので、地域ごと年齢ごとにプロポーションを測っておけば、まずまず、しばらく使えるデータになるし、将来も予測できる。


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うむ。まず買う人いないだろうな。
木のプロポーション表(東日本編)、と考えておけばいい。なぜか学生のころ購入してしまったらしく(購入した記憶がない)、今だにもっている。借りパクしたんだろうか。
この本、出典に目をやると、大正とか昭和初期とか、恐ろしく古いデータにお目にかかることができる。昔から測りたがりはいたんだな。
同じ年のスギでも太平洋側のやつはすらりとしていて、我らが日本海側のやつはずんぐりむっくりしているんだな、とか、わかる。
木のサイズは昔も今も、今後もそんなに変わらない、ということ。


なんでこの話題なのか。こう雪に閉ざされてしまうとですね、嗚呼山の写真とってこればよかった、だの、嗚呼データとり忘れた、だのという後悔がひしひしと押し寄せるわけです。予算要求前なので。
それは暖かいうちにやっておきなさいね、ということは百も承知だ。やらなきゃいけないことはいろいろあるし、正直めんどい。そしてある日、雪に閉ざされる。
3年ぶりに見上げる雪空がなんともじんわりきた。悪い意味で。


さて。
測りにくいけれど測りたい。でも測りきれないから妄想で補う。その次は。遠くからオフィスにいながらにして測ってみよう、です。リモートセンシングといいます。googleの空中写真は木の名前まではわからないけれど、針葉樹か広葉樹かはおおよそ判断できる。これだって遠くから分かることだから、立派にリモセンです。遠くから林を「触る」。

昔気質の先生は足で稼げ、とおっしゃいそうですが、ものぐさな僕はこちらのほうが好みです。オフィスに居ながらにして分かることが多いほうが良いに決まってる。
結局のところ、古いデータが利用可能なのだ、と胸を張るのは、それだけ簡単に計測できるもんじゃないことの裏返しだ。事件は裏庭の菜園じゃなくて、何十キロと離れた山の中で密やかに起こっている。


結局のところ、なんで林学がああも測りまくるかといえば、やっぱり基礎の習得だったんでしょうね。今の測量機械はすげぇ。高いけど。すごいけれど、技術的な基本はレベルやポケットコンパス覗いたりするところにある。系統進化を辿るようにして、学生は何の役に立つか知れないものを測りまくるわけだ。イイハナシダナ。


そしてこんなアプリも出ていた。

DIY GPS: iPhoneを登山用GPS

いいね。おもしろそう。
iPhoneをGPSに使って山行こうぜ。当然山の上は電波は入らないけど、GPSのデータは拾える。あとは地図さえありゃいいじゃん、という発想。バッテリーの減りはどうするよ、等の疑問はこの際却下だ。

計測精度を考えるならばGARMINとかのいいやつ買えばいいんだろうけれど、GPSって正確にその場を指し示す必要性って、実はあまりないかもしれない。
理由は100%いまここ、を証明する必要がないことと、証明されたとしてもお前どうせうごくやろ、ということ。居た事実(ログ)と、居た事を示すビスケットが落とすのは別だ。
GPSは居る場所/居た場所を示す機械であって、居たことを証明する機械ではない。どれだけ近いとしても再帰性はない。もしGPSに測量をさせるにはGPS自身がビスケットを落とす機能を備え付けないといけない。
そもそも2つは別の種類の作業だし、そもそもビスケットはたべものだ。

遠隔の場所を正確に指し示す必要があるのはやっぱり100キロ離れた60cmのマトにミサイルを当てる場合くらいじゃないのかな。それだって、構造物を作る場合には不十分な精度だ。僕としては「目的地、付近です」でいい。
特に今どこにいるのかが、致命的にわからない場合は。



300円ならなにやらお手頃な感じがするし、そもそもiphoneユーザーになったもんね。地図の切り出しがカシミール使わんきゃいけないのが、macユーザーには不便。
少し遊んでみるかな。ヒアリング終わったらな。