手を取り合って輪になって、マイムマイムを踊り狂いました。特に恋とかは生まれてないみたいです。火の気はないと思ってたのに。あれ可燃物だったのか。知らんかった。
※参考画像:大型ふとんかご
というところで多方面にご迷惑をお掛けしました。仕事を間違えた感が強い今日このごろ。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。佐渡は現在雪おこし的暴風雷雨ときどきあられな感じです。この世の終わりみたいです。くっそさむい。
一連のやりとりが過ぎ去って、やっぱお金を使う側の力量が大切だぜ、と認識を新たにしました。土木技術者としてのスキルが圧倒的に欠落しています。修士は哲学研ってのも言い訳にならない年頃になってきました。
設計者は設計根拠を示せなくてはいけない。お金を使う妥当性を示さなくてはいけない。ああこれ、なんだか修論のときに格闘してた「応答責任論」みたい。
しかしですね。理由を証し立てるのにはエネルギーがいるよなぁ、という当たり前のことに気がつくのです。でも問われたら応えなくてはいけない。国費が使われる場合とかね。
証し立てる側になんらかのエネルギーに見合うメリットがあればいいのか。半分は正しいし、半分は間違っている。
正しい半分はそのもの、お金だ。なんでも自前で出せるほど今の時分裕福な場所はない。やっぱりもらえるものならお金は欲しい。
間違っている半分は、「誰がお金がほしいのか」だ。欲しいのは地域住民かもしれないけれど、地域住民が直接お金をもらうことって少ない。災害復旧の事業主体になることも。申請から受け取りー検査ー報告とすんごい量の手続きがあるから、住民が請求するのはあんまり現実的じゃない。一家に一台バックホウ、ってわけにはいかないし。軽トラじゃないんだから。
だから地域の窓口としての行政が出てくる。こうなるとメリット/デメリットなんて話ではなくなる。インセンティブとは別に、ベースとして事務処理能力や「ある程度」の技術力が求められるわけです。
まずいな、と僕が最近よく思うのはそのあたり。
技術力(や事務処理能力)が低下していく中で、「理由を問われたのに答えられない」場面が今後増えていくのではないか。普通にできたことが今後できなくなるのではないか。そんな予感がします。
理由を問われ、根拠ある回答ができなかった場合、応答者は方針を変更しなくてはいけない。つまり、リーズナブルな回答が出せなかったから、謝罪し従前の方針を修正するなど。これがシステムの改善につながる。僕の修論のまとめはこんな感じだった。あくまで環境NGOと企業との応答可能性の分析してたんだ、よ。
ただこれが国民の税金だったとすると、「方針の変更」はお金の返還とか自力での補修とか、そういうことになる。事務量は一気に跳ね上がる。余裕のなさは切所で大きなエラーを招くだろう。そもそも「何が問われているのか」が理解されているかどうか。
あと「方針の変更」じゃなくて「恐れ入りました」で終わってしまう場合もある。そのほうがラクだし、世間的に求められているのは「方針の変更」じゃなくて「謝罪と賠償とペナルティ」だったりもする。暴れん坊将軍の時代からあんまり変わってない。
気合とか根性とかで語られるべきではなくて、単に機能不全として表現されるべきものだ。
何がいいたいかというと、地方は今後、お金を欲しがらないかもしれません、ということ。事務処理や技術に自信がないから、火中の栗を拾わない。変だろうか?もしそういう風景があったとして、それを「行政の怠惰」と呼んでいいものか。だって「金を受け取る能力」そのものがないんだぜ。
激甚災害になると補助率が飛躍的に跳ね上がって、9割くらいになったりもする。被災地の首長が「激甚災害の指定を」といっているニュースが流れたりするけれど、おたくの組織は本当にそれを使う能力があるの、ということが今後問題になるんじゃないかしら。
「事業をちゃんとできない人が国民の税金なんか使っちゃぁいけないんです」っていう話があったとして、たぶんそのひとの言うとおりに事態は推移するんじゃねぇの、と思います。そのひとは単に会計上の指摘をしているだけだったとしても。
だから首都圏と大都市でしか公共事業なんてできなくなる時代が来るかもしれないな、などと考えるわけです。それを「地方の自死」とでも呼ぶべきか。栄養が目の前にあっても咀嚼すること・消化することができないわけだから。
税金が節約できるとか会計上の是非とは別に、すごく深刻な問題が横たわっていると考えるべきじゃないのかな。
やれやれどっこい、というところから、なんだかいやな予感がするこの頃です。