今年は少ないから余計印象に残ったのかも。
当方、普及員なのでコミュニケーター的なスキルも仕事のうちに含まれるらしい。意識したことはないけれどきっとそうなのだろう。その辺のスキルアップ研修、ということで。
子曰く。業務の目的に立ち返るのだ。お客様の幸せってなんだっけ。初心を忘れずがんばっていこうぜ。などなど。職員研修とかでよくやるやつだ。あなたの仕事は?上司や部下をハッピーにするには?みたいな。
こういう研修を否定しない。研修でもなければこんなこと考えない。だから考えること自体に意味はある。思い出した初心がどれだけ持続するかはわからないけども。
感心しなかった理由。もちろん研修講師という職業は胡散臭い(失礼)人種であることは周知の事実なんだけれども、やっぱり胡散臭さが鼻についてしまったから。臭さが鼻につくとはこれ如何に。
いくら怪しくったって、気持ちよく乗せてくれればいいのだ。酔っ払ってしまえば多少の臭気は気にならない。どうも今回は、それがどうもうまくいかなかったみたいだ。
今回、彼はたまたま調子が悪かったのかもしれない。でも乗せられないセミナー講師はただの胡散臭いおっさんでしかないだろう。こんなことを考えている時点で、もう講師先生の講義内容なんてどうでもよくなっているわけですが。
こんなことを考えていたら、苫米地英人さんを思い出しました。大量の自己啓発本を書き倒している人。お高いセミナーや講習会を主催されている人。あるいはオウム真理教の信者の脱洗脳を行った人として記憶されている向きもあるかもしれません。
毀誉褒貶の激しい方ですけれど、個人的には嫌いではありません。高額のお布施をする余裕はないけれど。『スピリチュアリズム』『洗脳原論』は好著だと思いました。自分の知らない世界を見せつけられたような気持ちになりました。
最近ではヨガとか瞑想、マインドフルネスの効用への認知が進んでいるでしょう。だから、そういったものに対して宗教性を見出すことなく、心と体を整える技法としての理解がなされているように思う。座組は似ているのですが、苫米地さんの言葉で印象的なのは「変性意識」という言葉。一言でいえば「ゾーン」っていうやつなんでしょうか。例えが正しいかもわからないし、自分がそこに至った自覚はない。ただ、こういう世界はわかるような気がするんです。
抽象的な思考を集中して行ったときだとか、ランニングを続けているときだとか、いつもと違う感覚の中にいることがある。もちろん誰だってあると思う。それが変性意識だとは言わないけれども、感覚は変わることは知っている。だから、あったとしても不思議ではないと僕としては思わざるを得ない。
そこからの、英語がベラベラになる!とか、お金がたまる!とか、女の子にモテモテ!とか、俗世的欲望を全面に押し出す苫米地スタイル。これはもう、わざとやってるだろうと思うんですが。
自己啓発セミナー的問題点として、「誰もが望むとおりには啓発されていかない」ということがある。仮に実績のあるカリスマがある種のメソッドを構築して、書籍やセミナーで切り売りする。もちろんカリスマはそれで金を稼ぐわけなんですが、それは脇においておいて。
僕の知っている範囲では、フォロワーはカリスマの領域には到達することはない。理由はなんだろう。フォロワーの理解や実践が不足しているからかもしれない。あるいはカリスマのメソッドがおかしいかもしれない。そもそもカリスマってそんなにたくさん必要ないだろ。などなど。
ここでの問題は、どこが悪いのか結局わからないことだ。カリスマはフォロワーの精進不足のせいにして。フォロワーはカリスマのメソッドの欠陥を指摘して。そこから先に進まないんだろうな、と思うのです。
フォロワーがどんな苦情を述べようがカネを稼いだカリスマの勝ちだ、ということは指摘しておきたい。一方、「カリスマ」を「グル」という言葉に置き換えたら、限りなく宗教的ーオウム的であることも、同時に指摘しておきたい。
面白い著作がある一方で、苫米地さんの大半の著作は、似たりよったりというか、すっかすかです。まったく失礼な言い方だし、全部読んだわけではないけれど。有象無象の自己啓発系講師ならまだしも、苫米地さんはこのあたり当然自覚的なはずです。なんでこんなに空疎な仕事にせっせと勤しむのか。素朴に疑問。マネタイズと言われればそれまでなんだけど。
なんでもどうでもいいけれど、みなさま限られた時間ですから。なんて、youtubeをだらだらと閲覧している僕に言われたくないでしょうけども。もっとぐっと中身のある話を期待。
それはさておき。冒頭のお話。
僕がこういうセミナーを講師を務めるとしたら、受講生を洗脳したいものですね。望んで受講したわけでもないし、望んで教えたいわけでもない。言わば行きずりの関係です。僕としては彼らの行く末なんて知ったこっちゃないけれども、とにかく受講後は「明日から頑張れそう!」という希望に満ちていてほしい。そして講師の評価を星5つにしてほしい。
だから可能なら受講生を催眠状態(≒変性意識状態)に落とし込もうとするでしょう。受講生はそれと知らずに。腹黒いですかそうですか。でも技法があって評価基準がそこなら誰だってやるでしょ。
そのように考えると、世のセミナー講師たちはすべからく、受講生を気持よくさせる(勉強が捗るとはいっていない)義務を負っているといって過言ではない。過言かもしれません。
でもだって、そうでしょう。時代錯誤なスパルタ教育ならいざしらず、聴衆の反応が直接自分の評価に結びついてしまう。これはもう死活問題。できない講師は能力不足。バッサリと切って捨てます。ほんとにこの技術があるならね。でもたぶん、あるような気がするんです。
なんてことを研修中に考えた。当然研修の内容はほとんど右から左だわ。最近ちょっと忙しかったし、思索が捗るという意味でいい時間を過ごしたなと。
これはちょっといいすぎかしらん。