2015年4月7日火曜日

イスラームから転がりつつ、日本を眺めなおす

ハデに寝違えたとか、仕事でモニター見過ぎで目が痛いとか、些細な不満が鬱積しております。
いっそのこと、この不平不満を越佐海峡に投入してですね、親潮さんと黒潮さんが全力で撹拌し、プランクトンよろしくお魚たちがそいつをついばんみ、しまいには素敵なお刺身としてうちに届けばいいのに、と願ってやみません。もちろん切り身でな。うち、捌ける包丁ないから。
以上、ミックスジュース妄想。


首を持ち上げているのもつらい。つらいけれど、また明日にするとこうして日記を書くこともないだろうと。

インターネットが繋がるまでずいぶん夜が長くて、いろいろ読書ができました。
ということでようやく読んだ。
イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書)
集英社 (2015-04-03)
売り上げランキング: 6,385




本当はコトが起こってから売れ売れだったと聞く、池内恵さんの本を買おうと思っていたんです。

イスラーム国の衝撃 (文春新書)
池内 恵
文藝春秋
売り上げランキング: 575
でもまあ、毛色の似ている本を二冊買うほどの余裕はないし、どうせなら怪しいヒトの本が読みたいと思っていたので、上記をチョイス。ウィキの書かれようたるや。どんな奇人かと思ったから。
中田さんだって当事者のひとりとして、ずいぶん有名人でしたから、この本だって売れたんだと思いますが、池内さんの売り上げランキングをみると、すごいですね。


別にね、イスラームがどうだ、と語りたいわけではなくてですね。
率直に、本当に痛ましいことだと思ったのと同時に、イスラームの人たちは我々にとって「制度の他者」なのか、という疑問が浮かんだ。今話題の「価値観を共有する」者同士なのかどうか、ということ。
理解に苦しみ、釈然としない。実にたくさんのクエスチョンを感じた一件でありました。あの時書いたエントリーがあるんですけれど、あまりに支離滅裂なのでお蔵入りが確定されました。

なお、本件については、アルカイーダに友だちの友だちがいる鳩山弟さんに伺うとよく分かるかもしれません。宇宙人の兄を持つ彼は、日本で一番ストライクゾーンが広いというか、マン・オブ・コスモポリタンであるといっても過言ではありません。

結論から言えば、ジハードOKな彼らは、僕らとかなり異なる価値観を持っているように見えます。ただし、小ジハードと大ジハードがあって、戦争に類する行為は小ジハードに分類されるそうで、大ジハードはなんていうか、平たくいうと克己心みたいな感じです。
そんなもんだから、小ジハードは理解できない、でも大ジハードは僕の中の文脈として理解できるように思います。だってその佇まいはちょっと小乗仏教のようじゃないですか。こんな事を言うとどちらからも怒られそうですが。


本書、中田さんが穏やかな物言いをするから、読んでみても思ったほど怖くはなかったです。先述の池内さんによる補足的な一文が巻末に差し込まれているから、ニコイチで理解が進む気がします。
中田さんはイスラームの内側の人で、しかも宗教の中に身をおいている。イスラーム法に照らして、ジハードOKといっているんだから、ドキッとしないこともない。慎重に選ばれた言葉がそんなだから、周囲は当然ビビるだろうな。

だからといって、読んでいて「中田は騒乱罪で訴えられて然るべし」という読み方はないような気がするけれど、気になる向きは文末の池内さんの文章を一読された上で本書を読まれたらいいのかもしれません。身の安全を図りつつ、イヤイヤながら必死に弁護している姿に、僕はとても感銘を受けました。中田さんのことを好きか嫌いかは知らないけれど、中田さん的な人が囚われてはいけないと、強く認識されているように思えます。彼の立ち位置が一番誠実なのではないかと。

まったく不躾な話だと思うんだけれど、僕は『海辺のカフカ』のナカタさんと星野くんを思い出すんです。中田さんはナカタさんみたいで、つまりああいう人だなと考えてしまう。常識や法律からは解離してしまった人、という意味合いで。
実際、彼をひっとらえたとしても、何も得るものはないんだと思うんですよ。
小説の世界でも、実際の世界でも。


さて。
現実の中田さんはISISの考え方が狭量で暴力的であることは批判する。しかし、中田さんの理想はカリフの元にある巨大なイスラム圏であり、西洋的な領域国家主義にも批判的。だから既存のシリアとかイラクとかにも批判的。
法学者然としすぎている。だからたぶん誤解されるんだな、この人は。

カリフを「僭称」するバグダディ「容疑者」が、本物のカリフとなりえるかどうかは、イスラームの民の人心を得られるかどうかにある。しかし、上述のやり方をみると、それは難しいだろう、と。
宗教については知識がないので手も足も出ないけれど、その見立てについては実にまっとうだと思います。


印象的なのは、中田さんがジョン・ロールズの「無知のベール」を引いて、領域国家制度を批判しているところです。ロールズ先生にはずいぶんお世話になりましたからね。原典を読んだことないんだけれどね。
つまり中田さんは「生まれた子どもは国家を選べないし、選ぶ自由も持たない」ことを問題視しているのです。あの国に行きたい、となっても選べない。
移動の自由が認められるべきだと。

僕のロールズの理解は、「無知のベール」の中から這い出す人間だからこそ、出生後の格差を埋めるべく「所得の再分配」が認められるべきだ、という風な理路でした。
たしか、これが通説ですし、これでいいはずです。ロールズから発芽した種は、アマルティア・センの「潜在能力」に受け継がれ、ひいてはノーベル賞に到達、と。ざっくりした言い方ですまん。
一方で、中田さんは「選べないから、選べる世界を作り出せばいい」と、そういうのです。巨大な「イスラームの家」の中を自由に行ったり来たりするのです。
ロールズをひっくり返してしまうような、この切り口が非常に新鮮でした。


実際、考慮に価するアイディアなのかもしれません。特に昨今のへんてこなナショナリズムが跋扈するこの場所においては。宗教は別として考えてみると。
仮に日本という場所が良い、とするのであれば、大量に日本に住む移民が増えるでしょう。逆に韓国、中国が良い国だというのであれば日本人は移民するでしょう。
そうした状況を仮定して、ナショナリズムが育っていくかといえば、違うでしょうね。ナショナリズムは、領域国家主義に支えられたものであるように見えます。ヒトが次々と出入りを繰り返す環境では育たない。「おらが郷の美しさ」を寿ぐくらいはできるだろうけれど。
結局、自らを賞賛し、他を貶めるときって、自分が安全圏にいる(と思っている)時であって、ヒトそのものが流動体であれば、そんなことってできなくなるのではないか。
ロールズの宿題を体現する1つの方法として、中田さんの云う「大イスラーム」はいいかもしれない。無知のベールでたまたま当たりクジを引いただけで、モニタを眺めて悦に入るネトウヨさんたちよりもはるかに行動的で、まっとうだと思います。


ただ、思うのは、確かに僕らは領域国家に縛られているけれども、同時に守られてもいるということ。たとえば、中田さんは健康保険に入っていなくて、その理由はまあ、考えるまでもなく明らかだよな。身体への負荷が大きいラマダン期間中は、やはり体調を崩す人が多いと聞きます。猛暑でも日が沈むまで水も飲めないなんて、死んでしまうぜ。昭和の部活動も真っ青です。異教徒としてはまったく理解ができない。
そんなことで、安易にイスラームはこの場所にインストールできないのはもちろん承知しています。そもそも、酒が飲めない時点で僕はアウトです。ただ、個人と国家の立ち位置というものを考える機会にはなりました。

たとえば、人工透析はやたら単価が高い。年間100億円以上もかかるから、保険対象にするのをやめよう、という議論がある。実際にある。そうすると、糖尿病の患者さんは大変困る。困るだけじゃなくて死んでしまう。
キツイ言い方なのは自覚しているけれど、今回の一件でも噴き出した「自己責任論」を、そのまま高額保険医療を受けている人にも向けられてしまう可能性を、僕は少し感じるのね。「不摂生は自分の責任じゃない?」って、言われたらどうしよう。
難病のひとは、どうなんだろう、とかね。


僕は無知のベールでたぶんラッキーな当たりクジを引いていて、今のところ健康だけれども、それでも今日の寝ちがえは結構ヘビーなんだけれども、なんとかやっているし、病気になったらお医者にかかろうと思っている。3割負担でね。
スパっと透析を補助対象から外してしまえば、それはそれできっと違う世界/違う有り様が待っているんだと思う。でもそこに躊躇があるし、明らかに僕の理解の範疇を超えている部分があることも認識せざるを得ない。


そして、たぶん僕はネトウヨさんをそうは笑えない。読みながら痛感した。どこかで、国を拠り所にして、自分で選択していない。
だから中田さんのお考えに、複雑な気持ちで頷くばかりでした。彼のように軽やかかつ、ダイ・ハードな生き方は、正直難しいと思うのも事実です。

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術
立岩 真也
青土社
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実家にあるのでGW中にでも読みなおそう。


でもちょっとおもしろかったので、もう少し僕に近い立ち位置で、今回の一件でイヤな汗をかいたであろう、池内さんの本も読んでみようと思います。