2015年4月20日月曜日

ポンプ的役回り

生まれて初めて毎日ネクタイを締めて通勤する、35歳の春。
一日中、机に座ってます。定時で帰りますけど、毎日ヘトヘトです。
もうね、さっさとおうちに帰ってね、酒飲みながら激烈極まりないビートと醜悪極まりない怒号が部屋いっぱーいに響き渡るような背徳的な音楽に淫するしかないですよ。何もかも気に入らない。ネクタイとスーツを脱ぎ散らかして歯を食いしばり、火をつけて掲げる日々です。
うそです。一張羅が焼失しちゃう。

最近、ジョン・メイヤーとか、いいな、って思うんです。




たしか僕と同年輩くらいだった気がする(というか、いくつか若いんじゃないか)。名手には違いないんだろうけれど、早熟すぎるというか、歳にしては枯れ過ぎだろう、と。ずっとあんまり良く思ってなかったんですけれど。
最近、こんな風に紡がれるソロにジーン、ときてしまいます。


なんだっけ。

予算を担当し、意味不明なメールが連日大量に舞い込んでくるのは初体験なのですが、林業の「り」の字もねぇ仕事だな、と思います。おかしい。
公共事業の多くは国からお金をもらってやるので、じゃーお金あげる、内示/交付決定がキックスタート。出先にいると、まだ交付決定でないのかよ→発注できないのかよ、と思ってましたが、出ない。
ようやく予算が成立したので、これからぐるんぐるんと回り始めることになる、んだろうね。よくわからんけど。

林業における中枢といえば、農林水産省、ではなく林野庁になるんだけれど、年度ごとの予算をちゃんと管理して、ケリをつけるのはえらい手間だろう、と人ごとながら想像してしまう。これ47個ぶんやるんだな。
林野庁の人といえば、林学的に「選ばれし者」であるはずだけれども、真ん中の方に行けば行くほどきっと、壮絶な事務仕事が待っている。優秀な人から順番に専門から遠ざかるのは、なにやらやるせない。みんな、なんか変だな、と思わないのかしら。

林業は地方の仕事で、霞ヶ関に(あるいは僕の職場にも)仕事としての林業はない。当然なんだけれど。林業地に向けて(僕の場合は災害箇所に向けて)、お金という血液を淡々と送り続ける役回り、なのだろう。誰かがやらないといけない。
中心に近づくほど空疎で、たぶん林業的面白みはほとんどない。でもそれをやめないのは、血流を絶やしてはならぬ、というポンプ的義務感なのか。
実際、血流が絶えた途端死ぬんだけどな。


少しだけ、永久機関を想像するのです。押すという意思が失われてもなお、自動回転している輪だ。もちろん実際には、死にそうになりながら誰かが押しているんだけれども。そこに明確な意思が存在するのかどうか、もう僕にはわかんない。話の大きさが、僕の理解を超えている。
ええ。「システムによる生活世界の内的植民地化」とかうそぶいてもいいですけれど、うそぶいたところで実態は変わらないと思います。学者先生におかれましては、科研費の申請を頑張っていただきたいと思います。
分配的正義論とかいいなと思うんですけれど、結局一番コストがかかるのはとりもなおさず「分配」そのものでありまして、オマエら生産もしてないくせに何エラそうなこと言ってんだ、という穀潰し的蔑みに負けず、強く生きていきたいと思うんです。
違うんだ、僕らは穀潰しではなくて、これが僕らが選んだ世界なんだと。
そう訴えていきたい。こっそりと。


なんだっけ。

工事を担当してるときは、一つ一つの現場を必死こいて動かしていた。いまではそれらはスプレッドシートの一行一行の、無味乾燥な羅列としてある。
この一行が、けっこう大変なんだよな。羅列を見ながら、そんなことを思います。
ビュー・ポイントの変化を、まざまざと実感する瞬間。

混乱し、とまどっている。というのが実態なんでしょね。