2016年6月11日土曜日

地球はおとうふなんじゃないかと思った

とは、某協会で顧問を務める御年88歳のお言葉。

新潟地震の感想だそう。もう30年くらい前だったか、と仰っていました。本当のことを言えば、昭和39年の地震なので、50年くらい前の話です。御大にしてみれば30年も50年も同じようなもんだろ、という話であろうかと思います。
当方、カメラ係でしたが、まったく地球はおとうふだよな、と深く頷いた次第です。

新潟地震といえば、液状化現象。傾いた団地の写真とか、教科書でも見たような気がします。もちろんリアルタイムで経験してません。
今は擁壁に接したアパートに住んでいて、地震で擁壁壊れたらきっと我が家も滑り台のように流出するだろうな、と思いながら、擁壁の向こう側を眺めます。持ち家じゃなくてほんとうによかった。擁壁の面倒までみれないからね、と負け惜しみも言ってみます。






昨今すっかり土木畑の人間になってしまっている元文系人間なのですが、安定計算とか地耐力とかの話を聞くにつけ、あたかも「おとうふ」の上に確固たるものを築こうとしている感覚に襲われます。こっけいでもあるし、人の営為の小ささを感じる。人が無力だと言っているんじゃないんです。大きなイベントを前にすると、相対的に小さいことが強く意識される。そんな程度の意味です。


れんが作りの家はもちろん、藁や木の家よりも強いでしょう。しかしだね。強い、というのはどういうことか。3びきのこぶたが避けなくてはいけないのは、おおかみがふうふうしてお家を吹き飛ばしてしまう災厄であり、当座は地震のことを考えなくもよいのです。もちろん。
想定基礎地盤が400kNで、などという話を聴きながら、頭の何処かで、違うぜ、そいつはおとうふだぜ、と思っている自分がいます。プリンでもいいです。


治山ダムの基礎として、2m程度根入れ深をとりなさい。そう教わりました。地山に載せるのだ、と。しかし、安定計算上で考えるならば、2mも根入れをとったところで、「おとうふの上に載せたコンクリートの固まり」である事実は変わりません。もちろん、柔らかい地盤の上にそっとコンクリートダムを置いてみたとしたら、不等沈下してクラックが入ることがあります。そんなことで、特別固い地盤を求めているというよりも、ある程度堅固でありながらも均質で安定した地盤を求めている、ということなのだと思います。たぶんね。

人が「確固たるもの」を大事にする気持ちはよく分かる。僕も小心者なので。でも「じゃあどれだけ確かなものが欲しいの?」と聞き返されて、答えられる人はそう多くないような気がします。
保険と一緒です。月額を積めばもしものときにたくさんお金が手に入るけれど、日々の暮らしを圧迫する。
もしものときがいつ来るのかとか、どれくらいひどいのかとか。一切わからない中で、嚢中の具合をたしかめつつ、もしもの備えをしなくてはいけない。


この性質は防災設備にも通じます。用心深さ極まる4匹目のこぶたがいたとして、地下の岩盤層までパイルを打ち込み、震度7にも耐える免震システムを備えた堅牢な住宅を作っている間に、きっと四郎はおおかみに喰われるはずです。おおかみとしては、こいつばかなんじゃないか、と思うはずです。食べながら。

予見できず、合理的な判断ができないところで、なにかを決めて備えなくてはいけないから、できるところからやりましょうね。
そんな当たり前の話しかできない。できるとことっていっても、当座の用は足されなくてはいけない。なによりも、その日々を楽しまなくてはいけない。できるところってなんだよ。おとうふの上に住む我々としては、なんとも悩ましい問題であります。

悩もうが諦めようが、おとうふの上に住んでいる事実だけが変わらない。そんなことを思ういながら、楽しそうに語る御大の言葉に耳を傾けていました。