2017年9月24日日曜日

すり替わる物語

今年は研究発表会によく顔を出しています。

技術者の発表も面白いし、ためになる。しかし、その道の研究者の話は面白い。
森林を巡る水の話。基本的には新着知識はなかった。それはそれでいいことだ。どうやらまだ、僕の知識はそんなに古びてはいないみたいだ。

おもしろかったのは襟裳岬の昆布の話。
伐採により襟裳砂漠と呼ばれたころがあった。襟裳砂漠の問題は、飛砂による海の汚濁。それにより陽光が遮られ、特産の昆布の生育が悪くなった。
だから植林がなされた。昆布のために。
それがいつのまにか、「森が魚を育てる」という物語に合流してしまった。話がすり替わってしまった。スピーカーの方はそんな風に仰る。

ああ、そういうことってけっこうあるような気がするな。




自分だけで一から十まで考え出すのは非効率だし、不可能だ。毎朝ニュースをみるように、僕らは世界からたくさんの情報を享受する。
広く、人に受け入れられている話というのが、さしあたりはもっともらしい。
しかし、受け入れられている話だって、事実と異なる場合がある。

物語が好きだ。
研究だって仕事だって生活だって、どこか物語みたいじゃないですか。
僕らは無数にある物語を選ぶ。なるべく納得できて、見栄えがよくて、損をしない物語がいいな、と思うんだけど。
クロゼットからネクタイを選ぶようなカジュアルな選択もあれば、シリアスな物語もある。

「福島で次世代に放射線被曝の影響は考えられない」ということ――日本学術会議の「合意」を読みとく Synodos 服部美咲

この辺になると、ずいぶん重い。
服部さんの話が正しいのであれば、「専門家間の意見の隔たり」ですらなく「話をすり替えたい人」がいるように思えて、ずいぶん政治的な世界なのだな、と感心しました。
日本学術会議って日本最高峰の専門家の集まりだろうと思ってた。


軽薄で無責任な話をしてたい。本当のところは、そんな風に思う。
そうは言っても、もしかしたら僕の話をマジメに聞いてしまう人がいるかもしれない。

何かの物語を選ぶことは、程度の差こそあれ一面では責任を引き受けることであるよなぁ、と思いました。リテラシーっていうほど大上段に構える必要なないだろうけど、眉毛に唾するくらいの心持ちで話は伺いたいものです。

襟裳岬は一度行ってみたいです。