コミューンみたいですよね、と彼は云うんだ。たぶんいい意味で。
えー、と思いながら、そうかもしれない、と応える。
僕はやや不本意だった。でもうまい反駁も思いつかなかった。でもまあそう云われてみれば、それはたしかにこれはコミューンのようだった。
共同体主義って好きじゃないんですよ。僕はリベラルだから。体育会系嫌い(所属していましたが)も労働組合嫌い(分会長までやりましたが)もきっと、このあたりに理由があると思っている。
出入り自由なのが公共性です。閉鎖的な隣組根性なんて虫唾が走ります。ところで町内会に入会させて頂いています。大事なのってやっぱり、地域の助け合いですよね。
心地よい関係性が続いていくのは素敵なことだ。でも、それは永遠には続かない。これまでだってそうだったし、これからもそうなのだろう。壊れてゆく組織をいくつも見てきた。反発や分裂、構成員とともに年を取るような。外界から遠ざかるような孤独な組織もあった。共同体はいいことばかりじゃない。
そういうことも踏まえて、僕は何が好きか、そのために何ができるか。
桜が散って、青々としてきた雰囲気。畑の作物が大きくなっていくのを見ること。枯葉にうんざりしながらも、見上げればケヤキの大木がしずしずを葉を落としていく姿。
結局僕は場所が好きなのか。この風景の中で人が集まって、わちゃわちゃしている。好きというよりもああよかったな、という感じがする。2歩どころか10歩くらい下がって見ていたい。なんなら通りすがるくらいでもよい。
人間関係を通じた連帯でもなければ、作業を通じた連帯でもなくて、場所を通じた連帯。場の提供そこに僕がいなかったとしても。
エルファーゼル・ブフィエは木を植えていた。彼の知らないところで森は大きくなり、たくさんの人を呼び込む。学校の教科書の挿絵では、森の中でダンスを楽しむ男女が描かれていた。
ブフィエはそのことを知っていたのか。それとも知らなかったのか。身体が持つ限り木を植え、養老院で死ぬ。木を植えた年寄りと、その木に憩う若い男女。二つの物語は別に交わっていないのではないか。小学生で触れたその話は、今も僕の中で残り続けている。
二つの物語が交わらなかったとして、それはそれでいいのではないか。少年の時も青年の時もそうは思えなかったけれど、壮年となった今はそう思う。なぜそう思ったか。端的に、考えるのが面倒になってきたからだろう。間違いなく。
加えるに、二つの物語が交わると利害が交錯するからかもしれない。目の前で若者が木をがんがん伐り始めたら、年寄りもさすがにちょっと、とは思うだろう。
人と人とは、ふつう、なかなかやっかいだ。意見が合うことも、合わないこともある。せっかくいま・ここにいるのだから、無用なやっかいさはないほうがいい。
そう思う理由は、僕自身が実際、コントロール・フリークだからだ。心配性で予定調和が大好きだから。でもそれは僕の性癖でしかない。何かを心配しないためには、僕がそのことを知らない、っていうのがいいと思う。
並行している(かもしれない)物語は僕の知らない物語だ。実際、うちの娘が徒党を組んで畑や庭をかけずり回っているのかよくわかんないし、たいして興味もない。たぶん、忍者ごっこだと思うんだけど。
ただ、この場所でいくつも物語が生まれている(かもしれない)ことは、割とキライじゃない。一番広いところで、それが僕の願いであり、祈りなのだと思う。たくさんの物語を許容できるような場所はあってもいいだろう。
ブフィエもきっとそんな思いだったんじゃないかなと思うんです。まあ、フィクションですけど。