記憶術、関心がありますよ。人並み程度もしくはそれ以下の記憶力しかないからな。自負してやる。
各所で話題になっているようなので、飛びついてみた。
日本語の書名は自己啓発の棚にあってもおかしくない。ていうか、よくありそう。でも本書には「チャンピオンになれた理由」は書いてないからな。
英語のタイトルは"Moonwalking with Einstein ~ The Art and Science of Remembering Everything~ "となっていて、こちらのほうがおしゃれ。サイエンスはいいけど、アートなのか。
たしかにアインシュタインは当代一級の頭脳だけれども、記憶力もよかったのか。
それとも「アインシュタインとムーンウォーク」って連結法のイメージそのものなのかしら。うん。確かにとっぴだし、なかなか忘れなさそうなイメージだ。
最初に言っておくと、本書はテクニック本ではないし、読めばあなたの記憶力がふつふつと高まるわけではない。ジャーナリスト自ら記憶術に挑戦していくお話。体験型ジャーナリズム、とでも言おうか。
JICAの語学訓練は僕にとって苦痛だった。単語を覚えるっていうのが何しろ苦手だし、スピーチとかも。先生ががっかりしたような顔をしているのをみて、こちらが申し訳なくなった。チャイン先生、まったく不肖の弟子で申し訳ありませんでした。
人の名前と顔を覚えるのもとても苦手。いつも最初に言っておくことにしている。僕は一回ではあなたの名前を覚えられないから、気を悪くされないように、と。
たいていの学習や訓練がそうであるように、語学学習は楽しくない。
本書、ごく普通のジャーナリストである著者が、なんと最終的には記憶力選手権に挑戦してしまうというお話。彼もまた、ごく平凡な記憶力しかないと自覚していて、記憶力が上昇したら敏腕ジャーナリストになれるのに!と。
思いますよ。僕だって。
確かに本書はテクニック本ではないけれども、記憶力メソッドを紹介しているから、もしかしたら学習書になるのかもしれない。でも本筋としては、記憶術の変遷と現代の記憶力の代表選手たちの肖像描写、そして、現代における記憶力/記憶術の位置づけについて、筆者が考察している。
それというのも、ご案内のとおり、僕らはすでにバードディスクという強力な外部記憶装置を手にしている。どちらかというと、仕事上でも知識を記憶するよりも、果てしなく荒れ狂う情報の大海における羅針盤の探し方、のようなものが重宝されている場合が多い。あのファイルはどこいったっけ、ってね。
今どき古色蒼然とした記憶術を用いて、頭のなかに情報を詰め込む必要性がどこにあるのか。しかもその情報は当事者の死とともに確実に散逸する。
記憶術なんて現代では意味ないじゃん。
筆者は繰り返し繰り返し、この問いに直面する。
本書で掲げられている記憶術のベースは、実は僕も知っていた。というよりも、テレビやなんかでよく紹介されているものだから、きっとみなさんだって耳にしたことはあるんじゃないだろうか。言葉や数字をイメージに置き換える。なるべく強烈で鮮やかなイメージを。そして頭のなかで建物を想像して(「記憶の宮殿」と呼んでいる)、そこにイメージを置く。
そしてこの方法は紀元前に発明されているものだと知って驚く。まだ記憶が非常に重要だった時代の産物。そもそもホメロスの「オデュッセイア」は、口頭伝承を纏めたものではないか、という説。「決まり文句」があまりにも多いからだ、という。
そーなんだ。
講談でも紙芝居でも、はたまた必要に迫られたスピーチの「えー」でもなんでもいいんだけれど、しゃべるときはリズムが大事ですよね。つまり「オデュッセイア」はずっと口頭を介して伝わってきたものを、文字として顕したものである、らしい。
現代の「知的競技者」はこの記憶術を更に発展させて、とんでもないテクニックを編み出しているらしい。でも基本はイメージ記憶(イメージ連結記憶)システムの発展バージョン、という風に読める。
麻雀、ってやりますか?僕はやらないんです。学生の時にさんざん誘われたんですけれど、やらなかった。「役」を覚えるのがめんどうだから。
ゲームを楽しむためにルールを覚える必要があるのと一緒で、記憶するためには最低限の記憶する枠組みを記憶しなくてはいけない。それすら面倒だと思ってしまった僕はけっこうな落第生なのだと思う。
膨大な記憶を可能にするためには、最初にこんなことをしなくてはいけない。僕は覚えないですよ、という姿勢そのものが批判されている気がして、心が痛む。
こんな風にして本書は、記憶術の歴史を紐解くと同時に、近年発展著しい脳科学もかじる。たとえばサヴァンとかアスペルガーとか。本書では「陳述記憶」と「非陳述記憶」という言葉が紹介されていて、手続き記憶とエピソード記憶(書評:音楽嗜好症〜音楽に憑かれた人々〜参照)と似ているんだけれど、微妙に意味が違うようで少し気になる。あとは、ジョシュア本人の記憶術トレーニング。
最近よくある(昔からよくあるな、ジャンプの後ろのほうに広告が載ってたもん)自己啓発的記憶術にちょっとした皮肉をまき散らしながら、上記の3本立てで回転していく構造になっている。
ジョシュアのトレーニングの過程はすごく面白い。知的競技者は記憶に際してどんなイメージを作るのかとか、記憶術ってこんな訓練するのだねとか。
でもさ、同時に身も蓋もない気持ちにもなるんです。強引に3行でまとめると、記憶術っていうのは:
・本当は君の脳みそは実はすごいんだ
・だから訓練に励むんだ
・でも、ちょっと覚えたからって調子に乗るな と集約される。どんなスポ根だ。
著者も認めるとおり、記憶術の威力を日常生活で発揮するのは難しい。だって、数字の羅列とか文字の羅列を覚える場面ってないじゃない。語学とか暗記とか、ある種の学習には向いているけれど、ビジネスで使うにはそれなりの工夫が必要で、その工夫はけっこうめんどくさくて、麻雀の役を覚えるよりももう少し大変なんだと思う。
なーるほーどねー、ちょーべんきょーになったー。
そう、月並みな感想を述べつつ本を閉じ、コーヒーを飲んだ後、3テラくらいのハードディスクを買いに行ったっていい。実際いいのだ。
ただね、ひとつ印象に残ったエピソードがあって。筆者が知的競技者にして記憶術の師匠のエドとの会話。
ずいぶん歳をとった(初老感)。
ベトナムの2年間はずいぶん印象にのこるエピソードがあった。帰国してから今まで、ほぼベトナムにいた時間と同じだけの時間を過ごしたけれど、僕自身の「記憶に残っているエピソード」は、比較にならないほど少ない。
このブログだって、ベトナムにいた時代のほうが色鮮やかなエントリーは多いと感じる。それだけ帰国後「ある日と別の日が同じ」な日々を過ごしていたのだろう。
もちろん、帰国せず、4年間ベトナムにいれば記憶が増えるかといえば、そんなこともないと思う。人はその生活に慣れるから。あの2年間は僕の人生の中で印象に残る、わりと突飛な経験だった。そういうことなのだ。
ネタがある、というのはブログを書くにしても、人生を鮮やかで豊かなものにしていく意味でも、とても大切なことだ。
「ポンプ的役回り」とは別に、僕にはもう少し彩りが必要なのだろう。
この本だってきっと、読み終わって売り払ったら内容はほとんど忘れてしまう。ただ、こんな風に日記を書いたことは憶えていると思う。そしてこのエントリーを見返したら、もう少しいろんなことを思い出すだろう。さらに後年、平成27年の5月にどんな生活をしてたか、うっすら思い出すかもしれない。
未来の僕へ。今年の阪神はダメ虎なんだけど、西武の森くんがすごいぜ。
約まることろ、このエントリーだって僕にしてみれば「釣り針」の一つなのだ。
著者であるジョシュア・フォアは、この現代において人が「記憶する」ことの意味を繰り返し問う。人が脳みその中に記憶していくことの意義はずいぶん薄れてしまった。
受験生諸君におかれては、死ぬほど暗記してくださいね。
「知的競技者」へのインタビュー。彼らがしばしば口にするのは「覚えることの楽しみ」だった。記憶することが以前ほど切実でない時代にあってなお、彼らのケツを蹴り続けるのは結局楽しみなのだ。
自らを追い立て、アップワード・スパイラルを描きつつ、変態的な桁の数字の記憶に勤しむ。きっとそうなのだろう。
口頭伝承の時代を遠く離れ、実際に大事なことはどこかにあるハードディスクに入っていて、必要な知識はWikiをはじめとした検索で、さしあたりはなんとかなる。
ハードが壊れるってことはありそうだけど、とりあえずは脇においておくとして。
そんな時代で大事なことは、僕やあなたというユニークな存在が、記録の大海の中にユニークな「釣り針」を垂らすことなのではないか。そして、その人となりが感じられる、ユニークな「釣り針」を垂らし続けるために、僕らは記憶していかなくてはいけないのかな。
充実した人生を一年一年、積み上げていく場所としての脳みそ、そして記憶。
本書を読みながら、そんなことを考えました。
いつもどおり、紹介した本と全く関係のない結論に落ち着いたところで、満足しました。
ご清聴ありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。
各所で話題になっているようなので、飛びついてみた。
ジョシュア・フォア
エクスナレッジ
売り上げランキング: 17,607
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日本語の書名は自己啓発の棚にあってもおかしくない。ていうか、よくありそう。でも本書には「チャンピオンになれた理由」は書いてないからな。
英語のタイトルは"Moonwalking with Einstein ~ The Art and Science of Remembering Everything~ "となっていて、こちらのほうがおしゃれ。サイエンスはいいけど、アートなのか。
たしかにアインシュタインは当代一級の頭脳だけれども、記憶力もよかったのか。
それとも「アインシュタインとムーンウォーク」って連結法のイメージそのものなのかしら。うん。確かにとっぴだし、なかなか忘れなさそうなイメージだ。
最初に言っておくと、本書はテクニック本ではないし、読めばあなたの記憶力がふつふつと高まるわけではない。ジャーナリスト自ら記憶術に挑戦していくお話。体験型ジャーナリズム、とでも言おうか。
JICAの語学訓練は僕にとって苦痛だった。単語を覚えるっていうのが何しろ苦手だし、スピーチとかも。先生ががっかりしたような顔をしているのをみて、こちらが申し訳なくなった。チャイン先生、まったく不肖の弟子で申し訳ありませんでした。
人の名前と顔を覚えるのもとても苦手。いつも最初に言っておくことにしている。僕は一回ではあなたの名前を覚えられないから、気を悪くされないように、と。
たいていの学習や訓練がそうであるように、語学学習は楽しくない。
本書、ごく普通のジャーナリストである著者が、なんと最終的には記憶力選手権に挑戦してしまうというお話。彼もまた、ごく平凡な記憶力しかないと自覚していて、記憶力が上昇したら敏腕ジャーナリストになれるのに!と。
思いますよ。僕だって。
確かに本書はテクニック本ではないけれども、記憶力メソッドを紹介しているから、もしかしたら学習書になるのかもしれない。でも本筋としては、記憶術の変遷と現代の記憶力の代表選手たちの肖像描写、そして、現代における記憶力/記憶術の位置づけについて、筆者が考察している。
それというのも、ご案内のとおり、僕らはすでにバードディスクという強力な外部記憶装置を手にしている。どちらかというと、仕事上でも知識を記憶するよりも、果てしなく荒れ狂う情報の大海における羅針盤の探し方、のようなものが重宝されている場合が多い。あのファイルはどこいったっけ、ってね。
今どき古色蒼然とした記憶術を用いて、頭のなかに情報を詰め込む必要性がどこにあるのか。しかもその情報は当事者の死とともに確実に散逸する。
記憶術なんて現代では意味ないじゃん。
筆者は繰り返し繰り返し、この問いに直面する。
本書で掲げられている記憶術のベースは、実は僕も知っていた。というよりも、テレビやなんかでよく紹介されているものだから、きっとみなさんだって耳にしたことはあるんじゃないだろうか。言葉や数字をイメージに置き換える。なるべく強烈で鮮やかなイメージを。そして頭のなかで建物を想像して(「記憶の宮殿」と呼んでいる)、そこにイメージを置く。
そしてこの方法は紀元前に発明されているものだと知って驚く。まだ記憶が非常に重要だった時代の産物。そもそもホメロスの「オデュッセイア」は、口頭伝承を纏めたものではないか、という説。「決まり文句」があまりにも多いからだ、という。
そーなんだ。
講談でも紙芝居でも、はたまた必要に迫られたスピーチの「えー」でもなんでもいいんだけれど、しゃべるときはリズムが大事ですよね。つまり「オデュッセイア」はずっと口頭を介して伝わってきたものを、文字として顕したものである、らしい。
現代の「知的競技者」はこの記憶術を更に発展させて、とんでもないテクニックを編み出しているらしい。でも基本はイメージ記憶(イメージ連結記憶)システムの発展バージョン、という風に読める。
麻雀、ってやりますか?僕はやらないんです。学生の時にさんざん誘われたんですけれど、やらなかった。「役」を覚えるのがめんどうだから。
ゲームを楽しむためにルールを覚える必要があるのと一緒で、記憶するためには最低限の記憶する枠組みを記憶しなくてはいけない。それすら面倒だと思ってしまった僕はけっこうな落第生なのだと思う。
膨大な記憶を可能にするためには、最初にこんなことをしなくてはいけない。僕は覚えないですよ、という姿勢そのものが批判されている気がして、心が痛む。
こんな風にして本書は、記憶術の歴史を紐解くと同時に、近年発展著しい脳科学もかじる。たとえばサヴァンとかアスペルガーとか。本書では「陳述記憶」と「非陳述記憶」という言葉が紹介されていて、手続き記憶とエピソード記憶(書評:音楽嗜好症〜音楽に憑かれた人々〜参照)と似ているんだけれど、微妙に意味が違うようで少し気になる。あとは、ジョシュア本人の記憶術トレーニング。
最近よくある(昔からよくあるな、ジャンプの後ろのほうに広告が載ってたもん)自己啓発的記憶術にちょっとした皮肉をまき散らしながら、上記の3本立てで回転していく構造になっている。
ジョシュアのトレーニングの過程はすごく面白い。知的競技者は記憶に際してどんなイメージを作るのかとか、記憶術ってこんな訓練するのだねとか。
でもさ、同時に身も蓋もない気持ちにもなるんです。強引に3行でまとめると、記憶術っていうのは:
・本当は君の脳みそは実はすごいんだ
・だから訓練に励むんだ
・でも、ちょっと覚えたからって調子に乗るな と集約される。どんなスポ根だ。
著者も認めるとおり、記憶術の威力を日常生活で発揮するのは難しい。だって、数字の羅列とか文字の羅列を覚える場面ってないじゃない。語学とか暗記とか、ある種の学習には向いているけれど、ビジネスで使うにはそれなりの工夫が必要で、その工夫はけっこうめんどくさくて、麻雀の役を覚えるよりももう少し大変なんだと思う。
なーるほーどねー、ちょーべんきょーになったー。
そう、月並みな感想を述べつつ本を閉じ、コーヒーを飲んだ後、3テラくらいのハードディスクを買いに行ったっていい。実際いいのだ。
ただね、ひとつ印象に残ったエピソードがあって。筆者が知的競技者にして記憶術の師匠のエドとの会話。
時間は単調さによって縮まり、新鮮さによって拡張する。日々体を動かし、健康的な食生活をして、充実しているときは、時間が短く感じる。仕切られた空間に座って書類を受け渡すだけの生活をしていると、1日の印象は残らないまま別の日と一緒になって消えてしまう。だから、日常生活のパターンを時々変えてみたり、普段は行かない場所に旅行に行ったり、できるだけたくさん新しい経験をしたりして、記憶をしっかりと固定させることが大切である。新しい記憶を作ることで心理的な時間が書く調査され、人生を長いものとして感じられるようになるのである。
…
年を取るほど時間が短く感じるのは、年をとるほど覚えにくくなっているからだ。「『憶えていること』が『人間であること』」だとしたら、『憶えていることが多い』ほど『人間らしい』ということになるだろう」とエドは言っている。
ずいぶん歳をとった(初老感)。
ベトナムの2年間はずいぶん印象にのこるエピソードがあった。帰国してから今まで、ほぼベトナムにいた時間と同じだけの時間を過ごしたけれど、僕自身の「記憶に残っているエピソード」は、比較にならないほど少ない。
このブログだって、ベトナムにいた時代のほうが色鮮やかなエントリーは多いと感じる。それだけ帰国後「ある日と別の日が同じ」な日々を過ごしていたのだろう。
もちろん、帰国せず、4年間ベトナムにいれば記憶が増えるかといえば、そんなこともないと思う。人はその生活に慣れるから。あの2年間は僕の人生の中で印象に残る、わりと突飛な経験だった。そういうことなのだ。
ネタがある、というのはブログを書くにしても、人生を鮮やかで豊かなものにしていく意味でも、とても大切なことだ。
「ポンプ的役回り」とは別に、僕にはもう少し彩りが必要なのだろう。
この本だってきっと、読み終わって売り払ったら内容はほとんど忘れてしまう。ただ、こんな風に日記を書いたことは憶えていると思う。そしてこのエントリーを見返したら、もう少しいろんなことを思い出すだろう。さらに後年、平成27年の5月にどんな生活をしてたか、うっすら思い出すかもしれない。
未来の僕へ。今年の阪神はダメ虎なんだけど、西武の森くんがすごいぜ。
約まることろ、このエントリーだって僕にしてみれば「釣り針」の一つなのだ。
著者であるジョシュア・フォアは、この現代において人が「記憶する」ことの意味を繰り返し問う。人が脳みその中に記憶していくことの意義はずいぶん薄れてしまった。
受験生諸君におかれては、死ぬほど暗記してくださいね。
「知的競技者」へのインタビュー。彼らがしばしば口にするのは「覚えることの楽しみ」だった。記憶することが以前ほど切実でない時代にあってなお、彼らのケツを蹴り続けるのは結局楽しみなのだ。
自らを追い立て、アップワード・スパイラルを描きつつ、変態的な桁の数字の記憶に勤しむ。きっとそうなのだろう。
口頭伝承の時代を遠く離れ、実際に大事なことはどこかにあるハードディスクに入っていて、必要な知識はWikiをはじめとした検索で、さしあたりはなんとかなる。
ハードが壊れるってことはありそうだけど、とりあえずは脇においておくとして。
そんな時代で大事なことは、僕やあなたというユニークな存在が、記録の大海の中にユニークな「釣り針」を垂らすことなのではないか。そして、その人となりが感じられる、ユニークな「釣り針」を垂らし続けるために、僕らは記憶していかなくてはいけないのかな。
充実した人生を一年一年、積み上げていく場所としての脳みそ、そして記憶。
本書を読みながら、そんなことを考えました。
いつもどおり、紹介した本と全く関係のない結論に落ち着いたところで、満足しました。
ご清聴ありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。