2017年11月4日土曜日

まだ見ぬ、私への贈り物




「まだ見ぬ君」とは、誰のことか。





ギフト 〜僕がきみに残せるもの〜
全米が涙した系のドキュメンタリーらしいです。

「ギフト」というタイトルは邦題。本当の題名は、当人の名前「グリーソン」だった。

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全米が涙する仕上がりだとすれば、僕も涙するしかないではないか。
覚悟して見に行ったけれど、泣かなかった。

ハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもない。
そもそも物語は、ぜんっぜん終わっていない。
グリーソン家の物語は現在もまだ、進行形だ。



難しいことは知らない。医者じゃないからね。
が、ALSという病気について簡単に。
筋萎縮性側索硬化症という。進行性の病気で徐々に身体の自由が失われる。皮膚感覚や意識は病に侵されない。
一般に予後は悪いとされているのは、自発呼吸ができなくなるからであり、人工呼吸器に切り替えてしまえばその限りではない。
根治できるような治療法はなくて、しばらく前に流行ったアイスバケットチャレンジみたいに寄付金を募り、支援や研究が進められている。

ALSには、以前から関心があった。
95歳のじいちゃんとホーキングさんの死生観に思いを馳せつつ、やっぱファイティングポーズが大事だよなと思う件

理由として、立岩真也という論者に触れたことがある。

ALS 不動の身体と息する機械
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読書ノート「良い死」立岩真也、の再録

この人の書いているものを読んでみて、平らで、まっとうな意見だと思えた。

しかし、この映画を見て、自明だと思っていたことが、あんまり自明だと思えなくなった。僕は尻込みしたのだ。


主人公であり、ALS患者であるスティーブ・グリーソン。
彼は患者である以前に、元NFLのスター選手であり、夫であり、父親である。発病してからは、ALS支援のキャンペイナーでもある。医師による告知を受け、「白旗は掲げない」決意のもと、病と共にに生きる。
一口に生きるといっても、無数の側面がある。素晴らしい面がある一方で、目を背けたくなるような面もある。介護、お金、夫婦の関係、子どもとの関係。
もちろん、そのどれもについて、語られるべきことはある。

病気が進行すると、できなくなることが増える。食事も排泄も。
そのことは、彼を苛立たせ、悲しませる。
もう自分の口で喋るのは、これが最後かもしれない。
嗚咽しながら、ろれつの回らない口でビデオカメラに向かって喋るスティーブ。
字幕を見なければ、もはや意味がわからない。
ただただ、胸を塞がれる。

そして、彼は「不動の人」となる。

この病気のポイントは、人工呼吸器の装着だ。
麻痺の進行で、徐々に自発呼吸が難しくなる。一方で、人工呼吸器をつけると呼吸困難から解放される代わりに24時間の介護が必要になる。
不動の人は、不動の人であるから、呼吸器を外すことはできない。誰かに頼んで外してもらうとすれば、この国であれば自殺幇助という名前がついてしまうかもしれない。
人工呼吸器を装着するか否かの決断は、当人にとっても、周囲の人にとっても大きな分水嶺になるはずなのだ。

人工呼吸器をつけたとして、悩みはそれで終わらない。始まるといってもいい。
24時間の完全介護の日々が、公式的に固定化されるのだから。
夫婦であるから、ささいな諍いも起こる。彼は不満を奥さんにぶつける。
スティーブン・ホーキングみたいな、人工的合成の声で。
僕は、その声の不自然さを思った。

僕らは語らう。囁き合う。笑い合う。罵り合う。
僕らは声の大きさや話し方、抑揚を無意識に使い分ける。

介護に疲れ切って、ベッドにへたり込む妻に向かって、彼は不満を云う。
感情のない、不相応に大きな、機械の声で。
--もっと子どもと触れ合う機会が欲しい--
妻は疲れた、かすれた声で、謝る。
言い過ぎたと思ったのか、彼も謝り、妻を気遣う。
やはり冷たくて不相応に大きい、機械の声で。

まず、彼を傲慢に感じた。
そして、普通の人であれば当たり前の望みじゃないか、と気がついた。
そのあと、その場に転がる、種々の欠落のことを思った。


以前僕が書いた「読書ノート」には、立岩を引用しながらこんなことが記してある。

 尊厳死はその人の意思だから、他人は関係ない、のではない。
「自分がそういう人にならないために、その手前で自分の身体・生命を無くして、自らを救出しようとしているのではないか。それはその人たちを害していることではないか。」(p117)
 暴力的に要約すると、尊厳死をしたい人はええかっこしい上に勝ち逃げしようとしている、その態度は他の人を傷つける、と言っている。ような気がする。

立岩の「自らを救い出す」とは、単に生命のことではない。デッドロックされてしまう(ように思われる)将来の状況からの自分からの救出だ。

僕はその姿を「ええかっこしい」と断じる。
しかし、眼前にその状態に至ることが明らかであるとしたら、僕は本当に自死を選ばないかだろうか。選んだ後で、死にたくならないか。
そもそも、最初に人工呼吸器を付けないと決断することができるか。
映画を見て、想像して、ひどく動揺した。
いま、この瞬間に自明なことは、この先も常に自明なわけではないのだ。

いや、だけど、それでも。
そのようには、思うのだが。



もうひとつ。
映画の中で彼はこんなことを云っていた。
父さんは、自分の信じるものを信じない人は幸せになれないと思ってる。でも勝手に決めつけないで。 僕の魂はもう救われているのだから
補足する。
彼の父は敬虔な人であった。そして、息子の病状に少ながらず打ちひしがれていた。あるいは当人以上に。だから、帰依に拠る奇跡を信じようとし、息子にも強いた。
そのような文脈があった。

この言葉は、感動的である。
しかしそれ以上に、不思議な響きを含んでいる。

彼の魂は「もう」救われている、のだ。

この先、彼はさまざまな厄介ごとを抱える。
それは病気だからではない。生きていると、その分だけ厄介ごとがあるものだろう。さまざまな厄介ごとに彼は怒るだろう。悲しむだろう。うんざりもするだろう。

にも関わらず、彼は「既に」救われている。そう云うのだ。
普通、こんな云い方はしない。



決意であり、祈りではないか。そう解してみた。
不確定な未来に開かれた文脈で、そんな言い方をする意味があるのだとすれば。

映画の邦題を「ギフト」にしたのは、綴られたビデオ・メッセージが彼の息子への「贈り物」だからだろう。
父親の話し方、(声帯を通じて放たれる)声、ささいな仕草。
現在は機械の声で喋る、不動の人となった父が、かつてはどういう人であったのか。息子は大きくなってから、ビデオを見ることで父の人となりを知ることができる。
その意味で、確かにこれは彼の息子への贈り物ではある。

そうは思うのだけれど。

未来の、彼自身への贈り物とも言えないか。
贈り物を未来の自分に向けて放つことで、未来に生きる私を担保しようとする、薄氷を踏むような試みではないか。
考えているうちに、そんな気がしてきた。

死者へのギフトは、原理的に成立しない。少なくとも唯物論的文脈では。
それは思いの一方通行であり、供物と言い換えてもいい。
彼が生きるという選択をしなかった場合、贈り物であるビデオの受取り手は「遺族」になる
しかし、彼はもう片方を選んだ。
だから、受取り手のリストの中には当然、未来に生きる当人、スティーブン・グリーソンも含まれる。


その贈り物が、彼にとって善きものなのか、悪しきものなのかは、未来の彼自身にしかわからない。
しかし「既に救われている」というのが彼の考えならば、その贈り物は彼にとって当然、善きものになるはずだ。
善きものとなるよう彼は努め、また、さらなる未来に向かい、そのように祈るだろう。
厄介ごとはいつでも、どこにでもある。
そうであるとして、彼は自身の文脈の中で歩み続ける。

時限爆弾のような、タイムカプセルのような、物語。


自身の生を、主体的に生きるとはどういうことなのか。
泣くことでも、尻込みをすることでもないのだ。
既に生きはじめて(だいぶ経って)いる僕は、もう少しきちんと考えなくちゃいけない。