2018年1月6日土曜日

モノへの耽溺:アイアマンガー三部作が美味しい

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいします。

本来ならば、改まってイイコト言えばいいんでしょうけれど、芸なしさるなので、本の話をしたいと思います。今年はいぬ年ですし、僕はひつじ男ですが。

肺都(アイアマンガー三部作3) (アイアマンガー三部作 3)
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帰郷して本屋に行くわけですよ。断然本は買う派、です。
ああ、世の中にはまだ見ぬ物語がたくさんある。
無数の物語が、僕とは無関係に、平行して流れているのだなぁ。
そう考えるとなんとなく、ふくふくと、幸せな気持ちになる。

欲しい本、知りたい物語はたくさんある。しかしながら、当方しがないサラリーマン。
かみやすり、ミキサー、iphoneⅩ、ドラゴンキラー、ほしふるうでわ、等々。
本を別にして、ほしいものはさまざまある。

そんなわけで、図書館が便利だなって。最近思うの。てへ。



エドワード・ケアリーという人は、古屋美登里さんの連載を通じて知った。
メタル・キッズだったので、Burrn!を欠かさず読んでいて、ここに古屋の書籍紹介の連載が載っていた。
メタル雑誌でメタル以外のことが書かれていると目立つ。
また彼女は実に、読ませる文章を書くのだ。

雑な読書 (BURRN!叢書)
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古屋 美登里
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これ、おもしろいです。下の『望楼館追想』の記事も収録されています。

そんなことで、ケアリーを読んだ最初の作品は、訳者が自分の訳書を連載を通じて全力で宣伝していた『望楼館追想』。そういうのってよくあるのかしら。

望楼館追想 (文春文庫)
望楼館追想 (文春文庫)
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エドワード ケアリー
文藝春秋
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文庫版が出ていました。
フリークスというか、とても奇妙な人たちが織りなす、とても奇妙なお話。
期待に違わぬ、素晴らしい作品でした。

それからBurrn!を読むのもやめてしまって、彼の著作を追う機会もなくなってしまった。どの書店でも平積みされているような作家ではないから。今のところは。で、気がついたら三部作が出ていた。もちろん訳者はすべて古屋。
うーむ。訳者がファン、というやつだ。潔い。
また、正確に言えば最初の2部分が刊行済みだった。
一冊3,000円くらい。が2冊。うーむ。高い。

そこへきて、妻は堅実な図書館派。
彼女について図書館にいくと、ケアリーが置いてある。

わたし、蒙がひらけました。
図書館ってべんり。

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ぞくぞくするような、素敵な装丁。でしょ。

彼の本は挿絵も面白い。不気味な人物画、子どもの秘密基地みたいな詳細な地図。
男の子が好きそうなやつだ。わくわくする。
もちろん内容だって負けていない。
『穢れの町』まで読んで、3冊目への禁断症状に陥っている。
その渇望は今や、禁煙に伴う禁断症状を遥かに上回る。

『望楼館』に通じる英国的な湿り気、暗さ、滑稽さ。仄暗い先に見える、ぼんやりとした光。ケアリーの作品に通底したモチーフとみてもいいのかもしれない。
通底といえば、相変わらず登場する奇妙な人々。読み始めは違和感が満載なんだけれども、話が進むうち違和感が消えて、当たり前となり、彼らが生き生きと動き出す。
著者の卓越した筆致と練りこまれた物語の展開によるものであろうし、古屋の愛情過多気味な翻訳のおかげなのかもしれない。


『堆塵館』のあとがきだったか、ミヒャエル・エンデの『モモ』を引いていて、ああ、と思った。確かに子どもから大人まで楽しめる物語で、通じる部分がある。
個人的には『モモ』よりも『はてしない物語』を思い出した。
小学生の頃だから記憶はもう、曖昧になっているんだけれども。

ネバーエンディングな映画の方じゃなくて、本の方。



学校の図書室、ではなくて図書準備室に置かれていて、貸出禁止扱いになっていた。
ケース付きの重厚なハードカバー。装丁が重厚で美しい。

ドキドキしながらページを捲った。そういう種類の記憶。

たしか、『はてしない物語』では、本の中の世界で、主人公は自らの剣とけんかをする(剣の意に沿わず、むりやり鞘から引き抜いてしまう)。のちに主人公は反省し、剣と仲直りをするのだ。
この三部作の主人公を含むアイアマンガー一族は、「誕生の品」という些細で脈絡のないモノを誰もが持っていて、終生肌身離さず持っていなくてはいけない。
それに加えて、主人公はモノの声を聞くことができる。だから彼はモノをあたかも人のように扱う。
それはそれなりの理由があって、これ以上言うとネタバレになってしまう。もうすでに、けっこうネタバレかもしれない。ごめんなさい。

これから本書の紐解かれるみなさまに、これ以上ご迷惑をかけるわけにいかない。


ところで、人とモノが同じような存在感を持って扱われている世界観に、僕は妙に惹かれる。なにか、忘れていたことを思い出しそうな気がするのだ。

子どもの頃はモノと人とを同じように扱っていた、なんてことはないけれど、もう少しモノの存在感があったような気はする。
モノに依存していたし(今ももちろんしてるけど)、モノの神秘性や親密さを感じていた。変な話だけれども、モノの侵襲性に恐れすら抱いていた。平たく言えば、場合によってはモノは僕に害をなすと考えていた(今はまったくそんなことはない、とは言わない)。

昔はモノと僕との距離が近かったのだ、という言い方は不足がある。
僕は、僕の手足をはるか飛び出てて広がり、家族はもちろん、周囲の雑多なモノまでも僕の内側にあった。
実感として、それくらい言ってしまっていい。

家における僕は、お気に入りの毛布カバー(「モノの親密さ」という個人的記憶において、欠くことのできないアイテムだ)を含むお布団にくるまり、完全に一体化していた。
僕はベッドであり、畳であり、窓でもあり、家そのものですらあった。
「家」としての僕は、静かに降る雪を眺めていた。
一方、出先での僕は、ギュッと縮こまり、手足はおろか心臓ですら、僕のものではないことだってあった。

社会性が求められる場面では、モノとの関わりが後退する。
これは示唆的だ。モノとの関わりは場所と時間を選ぶのだ。
とまれ。つまり。どうも。
僕は、びょんびょんと伸縮する種類の自意識を持っていたらしい。風船みたいに。

自意識が、モノを内側に取り込んでしまったとき、当然モノを自分の一部として扱う。モノはもはや、客観的な対象物ではなくなるはずだ。

なんだかもうこれ、書いていて意味わかんねぇな。


こんなことは当時はもちろん考えていなかった。
物語を読んで、自分の在りようを思い出し、そう解釈しただけだ。

ではなぜいまさら、そんなことを考えはじめたか。
物語の描写のなかに、その登場人物たちのなかに、以前嗅いだことのある匂いがするからだ。

ケアリーの作品に出てくるフリークスたちが現存するならば、確かに奇人・変人の類だ。けれどもその嗜好性そのものは、本来多くの人が持っているのではないか。
程度を超えているから、奇人・変人とされるだけだ。
誰だってその種の素養はある。解るけど解らないふりをしている。変人と思われるから。

僕としてはそう思うんだけれども、僕は僕でしかないので、他所さまの感覚や、そのお考えは、結局分からない。え。みんなそうなんでしょ?と、言うだけだ。


三部作の3作目、待望の『肺都』が12月に出版。なんと4,000円超え。高けぇ。
図書館に、置いてあるかな。
ケアリーに触れたことのない諸姉諸兄、諸妹諸弟は、騙されたと思って一度手にとってみては。
もしかしたら、知っている匂いがこの物語から感じられるかもしれませんよ。