三日坊主で終わるかもしれないけれども。
そもそも僕の「書き方」ってどうなんだっけ。あんまり意識しない。息を吸って吐くようなものだから。
たぶん僕のスタイルはたぶんボトムアップ型。こと、自由に書く文章の場合、結論を決めて文章を書くことはないし、「予め」全体を俯瞰することもない。
同時に、テーマありきである。それはあくまでモチベーションの部分だけの話だ。まずは書きたいと思うテーマがあってMacを開く。テーマを蹴っ飛ばす。蹴っ飛ばすだけ、文章は膨らんでいく。
そして、カミサマが降りてくる。酩酊している時に。別に酩酊していなくても降りてくるかもしれないけれども。書いているときはたいてい酩酊しているから。
別の言い方をすると、ボトムアップの一形式と言ってもいい。もやっとしたテーマがある。指が温まってくると、自然にディテールが描かれる。ディテールはあくまで一つのケースでしかなくて、それ自身は結論を導かない。でも複数のケースが描かれると、自分が何を考えているのかが分かる。方向性が見えてくる。そんな気がする。
このスタイルの問題点として、近年カミサマが降りてこなくなったことが挙げられる。単に愛想が尽きたのかもしれない。でもそれ以前に時間的制約が大きくなった。好きなだけ酩酊をしていてよい時間帯は、少なくとも僕の中では過ぎ去ってしまった。
2つ目の問題点として、アルコールに弱くなったこともある。カミサマが降りてこれるだけ十分な量のアルコールが摂取できなくなった。眠いんだよ。
3つ目として、カミサマが降りてくる/こない以前に、結語が軽い。これは、ディテール書きであることに起因していると思うんだけれども、書き始めの時点で結論を携えていることはない。結語まで一気に書ききるだけのスタミナがないという言い方もできるし。そもそもゴールがわかんないだから、どれだけスタミナあっても足らんだろうという言い方もある。
だから、RPGよろしくセーブして、ロードする。
このブログは読み手を唸らせる目的で書かれてはいない。でも、そもそもすべての文章は読み手を前提に作られる。という個人的な信念がある。「テーマを叩きつける」という意味ではボトムアップで修辞語満載の文章というのは一定の効果はある(個人的にね)んだけれども、それだけでは足りないような気は常々している。
で、アウトライナーを使ってみたわけですよ。これが第一作目。アウトライナー使ってこの前置きの長さ。読みにくさ。全く申し訳ない。
書いていて思うこと。
一番大きな違和感として、結論を先取りしている背徳感がありますね。これを書いているワタクシは、何を結論とするのかを知っている。大層な結論ではないことはご案内のとおりであるとして。仮にお付き合い頂いている物好きの方がいると仮定する。その方と僕との間に、この時点で情報の量が同じではない。アンフェアだ。なんだかそんな風に思ってしまう。純朴すぎますかね。
もう一つには、冒険が足りないよね、このやり方。カミサマが降りてくる経験は、僕が僕自身を発見している経験でもある。全体を見ながら書く作業にはその手の冒険はない。偶有性がない文章には秘蹟だってないだろう。アウトライン型の作業はたぶん、カミサマを殺すだろうと思うんだけど。どうだろう。
でもそんなこと言えば、カミサマは降りてこないからやり方を変えたんだし、冒険という徘徊を続けているうちに強度の酩酊を引き起こしているのだ。日の目を見ないエントリーがどれだけあると思っているのか。後日読み直してもさっぱり意味がわからない。けっこうひどいと思う。ケチはすぐつけられるんだけど、反省はどれだけ深くてもすぐ忘れてしまう。性格だよな。
そして、アウトラインを考えながら作ると、やはり話を落としやすい。ボトムアップ型で同じテーマでこのエントリーを書いたとしても、同じ理路を辿れる自信はある。ただ、もう少し時間がかかっただろうし、今よりも数杯アルコールを流し込む必要はあるだろう。終盤までのスタミナを確保する意味では、このやり方はやはり省エネでエコなのだと思う。
という、試行錯誤をしてみたし、もう少ししてみようと思う。こういうことをしていて痛感するのが、僕自身に「読み手に伝えたいことがない」ということだ。この期に及んで、そんな感想を持ってしまう。
曖昧な欲望として何かしらの言葉を紡ぎたい。自己完結した個人的な日記にしないのは、先述のとおり。誰も読まないだろうと思いながらも読んでほしいと願うから。我ながら図々しいことだ。
であるならばやはり、文章はもっと磨かれるべきだ。
そんなこと言って、しばらくして前のやり方に戻っているかもしれないけれども。