というと、なんだかあんまりよくない感じがする。だからって「真実は細部に宿る」かといえばそうでもないでしょ。
細部にこだわった、クソみたいなモノ。たくさんあるわ。
この雰囲気にピンときた。ということで。
書いたような気がするけれど、何度でも書いちゃう。思い出す作業自体が愉しみだから、お許し願いたい。
初めて聴いたのは『炎の導火線』で、リアルタイムで買ったのが95年の『バランス』。『バランス』ツアーは15歳のときで、たぶん僕の人生2回目に行ったライブ。代々木オリンピックホール。ヒット曲満載の実に楽しい時間だった。
ウォルフガング・ヴァン・ヘイレンについてほとんど知らない。エドワードの息子であること。サミー・ヘイガーに続いてバンドを放り出されたマイケル・アンソニーに代わり、ヴァン・ヘイレンのベーシストを務めたこと。それくらいだ。
僕はサミー派なので、サミー脱退後のヴァン・ヘイレンにそこまでの思い入れはない。だからウォルフガングがどんなプレイヤーなのかは知らない。
昨年このレコード。すべてのパートを本人が演奏しているとのこと。ビッグバンドのベーシストを務めた御仁に破綻なんてない。その意味で、ウォルフガングことウォルフィは多才の人である。
唯一の問題は、彼が天才ギタリストの息子であることだ。
鵜の目鷹の目。この人はどんな音を鳴らすんだろうと、単純に興味があったわけです。
あーやっぱ、この人エディの息子だと思った。
才能やテクニックは遺伝するのだろうか。素朴な疑問として。
運指やストロークワークは練習に基づく後天的な部類。だから基本的にはしないはずだ。でもパガニーニみたいに巨大な手を持つ人とか、生得的な要素もある。あるいは英才教育というものもある。F1レーサーの子どもがまたレーサーになるように。最高のお手本が傍らにいたケース、ということになるのだろう。
現段階でレコードはフルレングスとして発表されていない。残りの曲がライトハンド奏法全開ピロピロものである可能性は否定できないものの、どうもそうではないような気がしている。ここに発表されている曲は、いずれもシンプルでオーソドックスなロックだ。
父を凌駕するようなテクニックはここでは示されていないし、そもそもそんな意気込みも感じられない。ただ、示された楽曲にはどこかエディの面影を感じる。音の選び方だとか、フレーズだとか。
世間的にエディはギタリストとして評価されるが、曲を大事にする人でもあった。遺作となった"Different Kind of Truth"でもよく練られた曲が並んでいた。改めて聴くと過去のあれやこれやが思い浮かび、ファンにサービスしすぎのキライはあるのだけれど。
結局曲が全てだ。
曲が良かったから何千万枚のレコードを売って何十年も生き抜いてきた。キャッチーな曲であれ、ロックンロールであれ、落とし所が用意されている。コンポーザーというエディのもう一つの偉大な才能を見逃すわけにはいかない。ヴァン・ヘイレンは流行り廃りの波を乗り越えて、王道を歩き続けた数少ないバンドだ。
エディは歌い手を選ばないのだろうけれど、邪推をするならばたぶん、サミーよりデイヴの方が与しやすかった。「ダイヤモンド・デイヴ」はシリアスにならない(なれない)。心ゆくまでアイスクリームと女の子のことを歌う西海岸的バカロックにはうってつけの人材だ。だから最後のヴォーカルがデイヴだったのは必然だったのかも。今にして思うんだけども。
生きた人の話に戻す。
ウォルフィのデビュー戦。身構えたこちらが拍子抜けするくらい、しっかりとフックがついた、シンプルでストレートなロックだ。率直に、いいと思った。もしこれが、親父に追いつけ追い越せみたいなテクニック一辺倒の見せ方だったら、厳しいものになっただろう。
革命家の子どもが革命家であったとして、ジュニアは何を壊すのだろう?目の前に広がるクソッタレな世界だろうか。それともクソッタレな世界を招来した親だろうか。
ウォルフィは今のところ、革命家ではないようだ。彼はたぶん最初から、親父とも世界とも勝負をしないと決めている。単純に自分が求める音を鳴らそうとしているように見える。
あと、歌が上手なんだこの人。びっくりした。デイヴのタレント性やサミーの声域に迫れるとも思えないけれども、彼なりのロックシンガーの定義は確立されているみたいだ。
エディもキャリア後半で、部分的にしろ(決して上手ではなかったにしろ)自らヴォーカルを取るようになった。
親父と勝負しないというよりも、親父の物語のその先を見せてくれているような気になる。
そのように、たぶんあえて、全部ひとりでやった。そこに彼のクレバーさが感じられる。
クレバーというと、なんだか計算高い感じがしてしまう。もちろんそれだけではない。彼はおとうちゃんが大好きであった。そしておとうちゃんに愛されてもいた。
そんな彼の鳴らす音は、かつて多くの人が愛していたものではないか。そうであったらよいな。
また死んだ人の話をしてしまう。
エディの最晩年。サミーがエディに電話をしようと悪戦苦闘したんだってさ。「もうケンカはやめるから、仲直りしたいから、誰かエドの電話番号教えて!」って。
-(電話してくるまでに)なんでこんなに時間がかかったんだ
- 頼むから そんなこと言うなよ
- なあ、俺はずっと待ってたんだぞ
こんな愛くるしいやりとりをする60代と70代を、僕は知らない。このおっさんたちは少なくとも20年くらいはケンカをしていたのだ。エディの「ずっと待ってた」は、どうやらサムの心を鷲掴みにしてしまった。
20年も待ってたんならオマエが電話せぇよと思うのだ。ただ、復縁をひとつの風景として捉えるならば、どうしたってこの種の相似形になりそうだ。こんな場面で独創性を発揮する必要もないけれど。いずれにしても、どんなタイミングでも、縁が戻ってよかったね。
最後に。
話が混線して恐縮だけれども、冒頭に貼り付けた"Think it Over"。爽やかでポジティブさを発散する曲。でもコーラスの歌詞はそんなに前向きじゃない。
待ってくれ、なんで俺はこんなに動けないんだ?
なあ、お前は考えるのになんでこんな時間がかかったんだ?
「動けない」のは俺だから、「時間がかかった」のは当然「俺」のはずだ。
動けない「俺」を二人称で呼ぶ誰かさんはきっと、親父だろう。そしてその親父も「俺」に召喚されていることに留意。エディは泉下で苦笑いをしてるんじゃないか。
そんな面倒な構成をする理由はそんなにない。「自分のケツを蹴り上げたい」だとか「気持ちを誰かに伝えたい」だとか。要は生きている人間の都合でしょ。もちろん悪いことじゃない。この世は生きている人のためにあるのだから。
無事この曲がリリースされて、レコードがリリースされるということは、ウォルフィは「考え終わった」ことを意味していると思う。
あとは。個人的に。僕はこの歌詞「時間がかかった(take you so long)」って、エディとサミーのやりとりのオマージュじゃない?って思えちゃうのよね。こっそりと。個人的に。
こんなにべろりんとサミーが喋って、立派な記事になっちゃっているし。
そんなところで、ウォルフィは親の七光りどころか、デビュー時点ですでに苦労人です。できた倅だと思うんですよね。先代にお世話になったおっちゃんとしてはね、もう大事にしてやりてぇな、と思う次第です。
このレコードの、先があると良いのだけれど。