2023年9月20日水曜日

書評:物語は世界を滅ぼさないんじゃないかしら

すっかり農家なので、野菜を家に持って帰る。

ただいま、と玄関をあけると、おみやげは?と子どもが出てくる。

なすやらピーマンやらが入ったタライを渡すと、喜々として母親に持っていく。手ぶらで帰ると、ぷいっといなくなる。なんだか、そこはかとなく、幸せな感じがする。


これが物語であるとしたら、ずいぶんとなだらかなもので、いくぶん退屈かもしれない。

もちろん、日々いろいろあるんですが。




ある意味出身母体である、国際環境NGO FoE Japanが処理水の放出で、久々に話題に上がっているのを興味深く見ていた。ことの賛成/反対は各自でお決めになるとよいと思う。それは別として。


環境NGOのスタッフとして生きていくの大変なことだ。課題があってミッションを決め、キャンペーンを立ち上げ、解決していく。もちろん、エネルギーがいる。それ以上に、課題を解決していくことが使命というか、存在意義としていることに、当時インターン学生だった僕はとてつもなく重たいものを感じていた。


飲み会で「僕らはマトリックスのネロだよね」という話をしていた。印象に残っている。

真実を知っているから広めるなくてはいけない。戦わなくてはいけない。

しかし、僕からすれば「ずっとネロ」というのはいかにも気が重い。職業革命家は、革命が成就するまで身を粉にして戦い続けるのだろうか。革命が成功したら、次の革命に向けて転戦するのだろうか。なんともいえないもやっと感があった。

ないわー。超ない。

相応に怠け者になった44歳の僕はそう思う。

課題はある。でも、課題を解決するためだけにに生きているのではない。適当につきあったり、逃げたり。常に課題に向かい合うような根性は僕にはなかった。

だからこそ、ここに働くスタッフは意識が高いし、立派な人だと思ったんだけど。






世界は物語でできている。そして物語が世界を滅ぼすかもしれない。そんな情勢の中、しっくり来た一冊。


本書は、物語の機能のひとつである「相手をなびかせること」に着想されている。プラトンからトランピズムまで。物語の語られ方や機能、現代的な話題で言えば、陰謀論やテロリズム、SNS以降のストーリーテリングの変容について、様々な考察が展開されている。

ちなみに著者はトランプという名前も出すのもいやらしく、彼を「でかメガホン」と形容する。


1つ目。

誰もが見たい情報の中でしか生きていかない。これは本書に限らず既にいろいろな人が云っている。著者は自身がストーリーバースと呼ぶ、人それぞれー個別の世界によって、世界の分断は進むと考える。大事なことは、その世界は事実かそうでないかは別の話、ということだ。その結果として生じた世界を著者は「ポスト真実」の世界と表現する。

ポスト真実の世界は、ほとんどの人が、真実が存在すると信じるのをやめる世界ではない…。ポスト真実の世界とはその逆で、確信が増した世界だ。どんなにいかれた物語を信じていようと、本物のエビデンスらしく見える山ほどの情報で裏付けが得られる世界なのだ。

困ったことだ。エビデンスの力が失われた世界では、誰もが誰かのためのネロみたいになってしまう。

本当に余計なお世話ですよね。客観的に。

確かにアメリカ大統領選挙のごたごたを見ていると、絶望したくなる気持ちにもなるだろう。あれは大変だ。


たしかに物語は、僕らの生活の大きな部分を占めている。思考法とか価値観とか、たくさんの物語の中から自分で好きなものを選択し、ものさしとして使う。その意味で、僕らは物語の中に住んでいるというのは間違いないし、見たい情報だけを見せてくれる世の中でもあるから、たこ壺に閉じこもりやすい時代ではあるのだろう。


一方。そんなに悲観的にならなくてもいいのではないの、とも思う。

僕だって見ず知らずの相手に「実はお前は騙されている」と言われてもピンとこない。どころかお前大丈夫か、ときっと腹を立てる。変な宗教の人が来訪したときみたいに。

それはつまり、僕自身が既に、お気に入りのナラティブを手にしていて、それを(少なくとも当面は)手放すつもりがないからかもしれない。

とまれ、そうやって意見が割れることまでは頷ける。世界が割れることも、まあいいだろう。

問題はその先だ。

科学的事実であろうが、フェイクニュースであろうが、物語として機能し、一定の支持者を持つに至ったとする。

それで、一方はどうやって他方を「なびかせる」のだろう。それとも世界はずっと割れたままなのだろうか。


僕を「なびかせる」ことができないなら、相手は失敗しているだろう。なにしろ僕はまだ改宗していないし。

「アイツは間違っている」っていいながら自分のたこ壺に引きこもるなんて、まさに敗者しぐさではないですか。

「俺になびかないあいつはいつか滅ぶ」っていうのもあるかもしれない。でもそれって、自説の証明のためには福島なんか復興しなくてもいいと考えている手合と一緒だし、そんな「勝手にシェルショック」な人が誰かをなびかせることができるとも思えない。


一方、トランプさんみたいに、割れた一方の領袖であればそれでいい、多数派であれば異端の少数派は捨て置くにしかず、みたいなスタンスもありだと思う。

しかしそれは「ネロ的あり方」において堕落した態度だろう。あなたたちは「偉大なるアメリカ」を再興したいんでしょ。反対する人だってアメリカの一部でしょ。

割れた世界のまんまである。それを是認し、放置するならば、それぞれの陣営の「物語の強度」が足りないのではないか。異端を捨て置くなんて自分のナラティブに対する忠誠が足りないのではないか。

トランプさんの限界は、たぶんその辺にあるのだと思う。


こんなふうに考えると、世界は原初から割れていたとも言えるし、未だ割れていないとも言える。

それが今に続く実相なのではないか。

たこ壺で人生を過ごすのはやっぱり退屈だし、相手がたこ壺から出てこなくなるのもさみしい。

あいつは間違っているからいつか滅びる、と思っている相手は意外と元気で長生きしたりする。

トランプさんとかもうすう80代ですけどお元気です。まあ、そんなこといったら現大統領も十分元気ですけど。


個人的に一番ありそうなのは「割れていることすら忘れる」こと。

確かに世界は割れたんだけど、いつの間にか元に戻るんじゃないだろうか。楽観的すぎるのかな。

もしそうでなければ、能動的に相手を殴り続けるか、抹殺してしまうか、自壊するかくらいしか思いつかない。

殴り続けるのは手が痛いだろうし、殴られ続けるのなんて身が持たないから。




2つ目。

本来何かを考える根本である科学を信じない向きに対しては、著者は大胆な批判を行う。つまり、研究者の思想信条が偏っていること。著者自身がリベラルを明言しているから、ほとんど捨て身の批判といっていい。

学術界のイデオロギー的な同質性は、特にジェンダー、人種、性的指向などアイデンティティの問題をめぐる不可侵で議論の余地のない信条に関して問答無用の権威主義的な傾向が高まることにより、拍車がかかっている。禁じられた問を発すると、寄ってたかって非難し、発言の機会を与えず、キャンセルし、排斥するー恐怖によって順応させる知識界の空気は、でかメガホン主義と同じくらいポスト真実の世界に加担している。


日本の研究者の思想信条はよく知らない。しかし、SNSをみていると、政党であれメディアであれ知識人であれ、左派が一般人に殴られるケースが増えているように見える。あ、別に左派に限らない。変なことを云っている人がまんべんなく殴られているだけかもしれない。


今や誰もが遠慮会釈なしにむき出しの好奇心、もとい、問題意識のまま、聞いてくる。今はそんな時代だ。

たとえば、

戦争反対はいいけれど、今のウクライナの戦争はどう考えているの、とか、

原発反対はいいけれど、電気料金厳しいですよね、とか。

安心してください。僕だってどうしよう、と思っているから。

問題はそうした攻撃に対して、左派とされる人はあんまり有効に殴り返していないように見えることだ。丁寧に議論を積んだり、相手に応えずに、なんだか左派的なロジックで相手を突き放してみたりする。


一般素人に何億回も同じことを訊かれて、ことを分けて説明するのが超絶面倒だったりするだろう。あるいは、その人がそもそも口下手だったりもするだろう。

でもその態度そのものは、あんまりよいことだとは思わない。馬脚を現したように見えてしまうのだ。

あれ、あの人ってその程度のことしか考えていなかったのかしらって。

これは、口八丁なカメレオンみたいなひろゆきさんみたいな人や、純粋無垢の突撃隊みたいな人がそうするのとは、少なくとも受け取り手にとっては意味が違う。

彼らは「使命」をもって「考えること」を仕事にしている人だと見られている。そういう人がとんずらこいてしまうのは違うだろうと。


そんなしぐさでは、当然相手は「なびかない」。

左派の凋落っていうのが本当であれば、たぶんこんなことから始まるのではないか。

リベラルって、語義的に言えば進取的な人たちであったはずだ。ミッションを持って課題を解決していく人であったはずだ。どうも、今のあり様はその言葉から距離がある。

でもそれを「劣化」と呼んでしまうのには躊躇がある。そもそも僕にはそんな生き方はできないから。


やっぱり長い時間をかけて課題を解決していく人だとか組織っていうのはすごく大変なのだ。条件反射だけで突撃している素人とは、背負っているものが本来違う。そして、漸進的であれ課題解決に向かう人や組織はこれまでもこれからもやっぱり必要なのだと思う。

その上で、そのような素人をもこれからは相手にしていかなくてはいけない。今までの基盤を守るのではなくて、自分たちの持っている物語を鍛え直して、相手をなびかせるに足る魅力ある物語を語ることが必要ではないか。


指導教官に「お前は中道左寄り。急に右旋回はしなそう」と言われたことのある僕なので、たぶん合っていると思う。大まかな方向性としては。

僕の言っていることは、ある人たちに負荷をかけ過ぎなのかもしれないとは思うんだけど。



最後にひとつ。なんかそういう事柄とは別の世界を描けないかしら、という思いだ。

著者は、人々は、幸せの物語を好まないという。

私たちはハッピーエンドを好むが、最初から最後まで順調に進む物語は総じて「出来が良くない」

そうなんですよね。

実際の人は職場で家庭とか、2つ以上の人生を送っているのではないか。

片方の人生を捨象して、議論だけをみるのはなんというか物事の半分しかみていないのではないかという気がするんだよね。

X(ついった。)を見ていても尖ったポストは世の中にたくさんあって、盛んに罵り合っているんだけど、そういう人たちだって携帯やモニターの外ではどういう生活を送っているんだろうか。割と普通の人なんじゃないのかなと思う。

「ぐりとぐら」を読んでいる。好きなんですよね、うちの二歳児。まだ最後まで読む集中力はない。

図書館に行けば無限に借りられる。僕が子どもの頃からある。あのカステラ、食べてみたかった。

そしてなんと今年で60周年だそうですよお客様!



永遠の子どもであるぐりとぐら(とお友だち)がくるくると一年を過ごしていく。

最初から最後まで誰も不幸にならない一年間。44歳のおじさんは大好きです。

こんなふうに、季節ごとに楽しみを見つけながら、ずっと過ごしていくのを見ていくのは、ふくふくとした幸せの余韻がある。なんなら最初に戻ってもういちど読んでもいいくらい。


しかし、そのあり様は結局現状肯定でしかなくて、職業革命家の諸兄姉が「ぐりとぐら」を読めば、まず間違いなく卒倒しかねないヌルい話であることも間違いない。



僕はこう言おうと思う。もし筋骨隆々の職業革命家が「ぐりとぐら」を読んでいる場面に出くわしたら。

「いいっすよね、これ。うちの子も大好きなんすよ。まだ全部読めてないけど」

どう響くかしらね。


あえて意見を先鋭化させ喧嘩する場所としてSNSを位置づけるのであれば、それはそれでいい。

でも、そういうSNS人格は、その人のすべてではないですよね。

というほのかな期待を僕は持っておこう。

その場所を離れれば、なんとなく幸せな時間や生活があることを願っている。