2024年4月27日土曜日

予感としての前向きさ



好きなんですよね。「アメリカン・アイドル」の彼女はもう10年選手。なんでなのかわからないけど、ずっとフォローしている。今作も全体的にいいレコードだったし、いくつも好きな曲はあったんだけど、はっとしたこの曲。


英語よくわかんないから歌詞が不穏じゃないかって。だって「あなたが(他の街から来た(新しい))銃弾に倒れた」ってあんまりハッピーじゃなささそうでしょう。なにこれシリアスな悲しい歌なのかしら、と思うじゃないですか。

でも良かった。どうも誰も撃たれていないみたいだ。現実的な意味で。

Meaning of ​​​​​​young gun by Tori Kelly (Ft. Jon Bellion)


現代アメリカ人R&Bシンガーよろしく、ソウルフルに歌いきっちゃうのが通常運転の彼女が、この曲では声の表情を掻き消し、マシナリーな歌唱に徹しているのがまず面白い。

そしてデュエット相手のジョン・ベリオンも素晴らしかった。トリーと同じく機械に徹していて、オクターブ下でユニゾンで窺い、2コーラス目でファルセットでトリーと同じキーに立つ。そのとき、二人の声よりもずいぶん高いところで倍音が聞こえて、それも非現実的な浮遊感を演出する。

最後のコーラスで、2人はようやく機械であることをやめ、その身体を浮かび上がらせる。そんな構成。

声は対置され、溶け合い、呼び合う。もちろんヴォコーダーだとか機械も使っているんでしょうけど、完全にアイディア勝ちの運び。

変な色気を見せて引き伸ばしたりせず、3分くらいで半ば唐突に終わるのも好い。僕は置いてけぼりになってしまってはじめて、なるほど、今度は僕が考える番なのか、と思う。

元彼(女)は銃弾に倒れる。もちろん象徴的な意味で。しかし後に残る余韻は不思議とポジティブだ。そうか、じゃあ私は「これから」どうしようか。


彼女の声はどことなくナタリー・インブルーリアを思い出させる。トリーのほうがずっと上手いと思うけれど。

"tone"は好きだった。97年。18歳の頃だ。少しハスキーな声で歌われる、手つかずの新しい朝、みずみずしい世界。そんなイメージ。ヒットしたと思う。たしか、飲み物のCMでも使われていたはずだ。

97年はあんまり希望ある年ではなかった。ふわふわ・どよよーんとしていたし、翌年は浪人生として1年を過ごすことになるのだ。わたくしごとではありましたが。それでもこの曲を聴くと頬に新しい風を感じるような、そんな気持ちになった。


当時二十歳そこそこだったナタリーは今や48歳なのだそう。タボっとしたパンツをはいた、どこか気だるい、当時としては実に現代的だった雰囲気の彼女しか知らない当時10代の44歳は、そのことに少し衝撃を受ける。でも曲がりなりにも彼女も僕も今も生きている。

あなたが誰であっていくつであろうと、新しい朝はいつもあなた待っている。「これから」をよすがに、僕らは「ずっと」生きていけるのではないか。もちろん象徴的な意味で。



2024年4月2日火曜日

なすことに、あまり深い意味を持たせてはいけない

がっかりするのは自分だからな。そういうのって敗北主義なのかしら。


最近企業のCSR活動にお邪魔する機会も出てきて、なんだかもやっとしている。この種の活動は平たく言って、環境教育などとも呼ばれる。で、教育とはなんだろうと。

教育とはすべからく洗脳であるという話はちらほら目にしていて、それはまあそうだろうと思う。


朝岡先生。環境教育の。大学院のとき授業を取った。なんだか先生は「たとえばゴミ問題がやりたいんです」といって研究室に来る学生がいるんだけど、そういうことではないんだとおっしゃっていた。環境に配慮した主体を育成することが大事なんです。そう言っていたような気がする。なるほど。ではどうしたら環境配慮的主体が育成されるのか。そこは残念ながら忘却のかなた。大事なところなのに。まじめに授業を受けていればよかったですね。

でも環境配慮的な主体を洗脳して育成するっていうことなんだろうか。あるいは情操教育は?情操の豊かな主体を洗脳して育成するのかしら。なんだかそれって変じゃない?

書いていて気がついた。僕は「教育」が好きではないんだな。そうはいっても僕は子どもには僕なりのモラルを押し付けているような気がするし、パターナリスティック(実際父親ですからね)の誹りは免れないことも自覚している。

親「ごとき」が、教育者「ごとき」がその人を変えるという考え方・意思が、ひどく傲慢なものに感じられる。そういうことなのではないか。親としての僕は、子どもの振る舞いにひどくいらついていますけども。ときおり、ときおり。

不完全な者が未分化の者を教導する。せざるを得ない。それは「てめえだって半端者のくせしてなに偉そうなこといってんだ」的15の夜的感情と「でもにんげんだもの」的みつお的酌量の余地を求めるエクスキューズの感情のミクスチュアであり、つまりそれは僕だ。ああ僕だ。


誰かを教育してやろうとする人にはそれなりの思惑がある。大人ですから。育成して楽がしたかったり、やってます的社会貢献アピールだったり、購買意欲喚起だったり、予算消化だったり、暇つぶしであったり。あんまりそこで目くじらたててもしょうがない。僕も大人だし、おこぼれにあずかっているし。

たとえば、教育の目指す先が社会変革だとか、グローバル人材の育成だとか、なんだか地に足がつかないことを言い始めると、とたんに傲慢な感じがする。そういうてめーはどうなんだ、と思ってしまう。あーわかった。僕は「教育」が嫌いなんじゃない。「主体形成」が嫌いなんだ。ごめんなさい朝岡先生。投げたサイコロの行き先をコントロールしようとする企て。わかるよ。したいよね。でもお前だって不肖の息子・娘だっただろ?ということなのだろう。きっと。

ただ実際のところ、教育されている主体は勝手に「よいもの」を取捨選択しているはずなので大方、教育者が願う主体には形成されない。心配せずとも不肖の息子・娘は再生産される。

そのようにして教育者の野望は潰えるのだ。ざまみろ。とほほほほ。


将来のことを考えると環境配慮的な人を育成するのはまあ、たぶんそれほど悪いことではない。一般的に。平たく言って。では、あんまり傲慢にならず、そういうことをするにはどうしたらいいのか。

事実や知識の授受だけなのかもしれない。これはカエルです、これが白菜です、これが複素数です。もう少しあるな。社会的なコード。これはドの音です。様々な社会的なコードを示す。

そこから先はその人次第だ。君の好きなコードで楽しめばいい。

僕らが言えるのはそこまでなんじゃないのかな。