2010年8月21日土曜日

で、僕はどう違うんだい?

「 卵を支持するというのは、気分的なものではだめなんです。それなりの決意と、最後まで責任を取る覚悟が必要です。僕は地下鉄サリン事件の実行犯の裁判を聴いていて、そのことを強く感じました。この人達がやっとことはまぎれもない悪であり、許されないことだ、それでもなお僕は彼らの側に立ってものをしっかり考えなくてはいけないんだと。そのことで被害者の人に糾弾されたとしても、社会に糾弾されたとしても、その気持は変えられない。その気持が『1Q84』のなかにもずいぶん入っている。イスラエルのあの刃物が混じったようなぴりぴりした空気の中で考えたことは、僕がいま小説で考えていることにそのまま地続きでつながっています。もちろんここでけりがついたわけではなくて、僕はこれからもずっと同じように考え続けていくことになるでしょう。」

 「考える人」2010年夏号 新潮社 2010  村上春樹ロングインタヴュー  p98

 
 違うよな、それ、と思うことに対してどうしたらいいんだろう。
それは違う!といってみる。それもいいね。
ただ、そういった批判は「批判的であるムーヴメント」の中に回収されてしまう
無力感がある。いつもある。「批判的ムーヴメント」の本質は批判的であることだ。
僕がいまなんとなく思いついたんだから、僕が定義してしまおう。
とりあえず批判してみればいい。でも、その批判はムーブメントに回収され、
ムーヴメントの熱源に使われてしまう。消尽してしまう。それなんか残念だ。
それはある意味「壁」に与する行為になってしまうような気がする。

最初の「違うよな」の違和感が求めているのは、批判ではなく、
訂正であるような気がする。なんかうまく説明できないけれど。
であれば、求めるべきものはそうじゃない(より違和感の少ない)考え方だったり
姿勢だったりするのではないか。

ある種の姿勢を示すことというのは、責任が発生するんだろう。きっと。
言ったんだから、そうしろよ、と。
責任はめんどくさいのでいやです。と思う。めんどくさいもの。
じゃあ、自分の中にある違和をそのままにしておくのか。むむ。
僕には何が出来るんだろうか。