2025年3月8日土曜日

万博の大屋根の源流

大阪万博の目玉 344億円の巨大木造リングはほぼフィンランド産…「日本の森林再生のため」の嘘っぱち 日刊ゲンダイ 2.26.2025

こんな記事に出くわして。エコ度ってなんなのさ。

別件で聞いたんだけれども、オリンピック・パラリンピックのときは競技場ほかでの使用のため、材が集められた。万博はそうでもないという話。それどころではないという話。

オリパラみたくちゃんと調達先を絞って発注しろや、というと、まるで当方が意識が高いみたいだ。当然先方だってそんなことを考えているはず。要は、そこまで意識する余裕すらないということだろう。工期だとか人気とりだとか。よく知らないけれど。イベントって大変ですよね、と衷心からお見舞いしてしまう。


一方、フィンランド材はダブついているのか。タブついているわけではないが、調達は国産と比べてたぶん容易だ。北欧は訪れてみたい気持ちはあるけれど、寒いのは苦手だ。

フィンランドの森林は、蓄積量が19億m3、100m3/ha程度だそうで、日本の37億m3、221m3/haの約半分しかない。

万博でどれだけの木材が入用だったかしらないけれども、資源的に少ない国から頂戴するのは確かにおかしなことだな、と思う。

端的に言って、製品としてスタンバってる木材とそうではない、山の中の木を想像してみればいい。実際総説明される。どこかに生産手段がない豊富な地下資源あることと、資源的にはそこそこでも生産手段が整備された場所があること。確実に納期に間に合わせるにはどちらをえらべばいい?「生産手段がない」が20年以上続いているのは御愛嬌なんですけど。


フィンランド 虚像の森   2022/8/24ペッカ・ユンッティ (著), アンナ・ルオホネン (著), イェンニ・ライナ (著)

知らない間に画像付きリンクが貼れなくなっていた。

フィンランドというか、スカンジナビアは「汲めども尽きぬ森」が広がっているイメージ。実際にはそれは違うということは前段のとおり。何が起こっているのか。そんな興味から手に取った一冊。

知らなかったことは多かった。しかし、全世代必読!っていう感じでもない。興味がある向きが、彼の国の様子を伺い知るには良い本だと思いました。

インタビュー/レポルタージュ形式の本って学生のころ大好きだった。本当のことが書いてあるように思えたから。腰が痛い中年となった現在はそうでもない。大好きだったエモーションに胃もたれを感じる年頃になっている。また、必ずしも「本当のこと」が書いてあるわけではないことももう知っている。

キーワードとしては保護と利用の対立、過伐、灌漑による森林の乾地化、になるか。前提条件として、スカンジナビアの森はもちろん有限の森だった。日本の半分ほどの森林蓄積しかない。そして、日本よりずっと寒いから樹木の成長が遅い。

成長量に準じて生産を行うのが、まあ、通常想定される林業のあり方なんだと思う。成長量以上の伐採は過伐と呼ばれ、蓄積量を毀損するからだ。日本はざっくり年間1億m3くらい成長していると言われていて、2千万m3くらいしか伐採していないから、蓄積が毎年増えていく。一方、フィンランドの年間成長量は8千万m3くらいでほぼ同量が伐採されている、とされている。成長量と均衡した生産だから、資源枯渇の心配はないとされる。

しかし、課題とされるのは質の劣化だ。再造林地が不成績であったり、成長促進のため灌漑排水を行っている。灌漑は植林木にとってみれば良いものかもしれないが、その土地の在り様を大きく変える行為ではあって、そこに議論がおこっている。

議論についてなんだけれど、日本でも「自然の権利訴訟」だとかを思い出す。僕の住んでいるあたりは圏央道ができるときずいぶん問題になった。その土地の在り様を変えるにあたって、何かしらの躊躇があってもいい。同時に圏央道ができた効果も見逃せないのだろうと思う。「(原生の)自然」の価値にどれだけ重みをつけるのかが、人によって違うから議論を引き起こすように思えて、それは日本だろうとフィンランドだろうと一緒なのだろう。

一方、気になるのが、森林の平均蓄積量が100m3/haくらいしかないことだ。寒冷で成長が遅い北の大地だから、まあそうなのだろうと思うけれど、本当に積み上げ算で8,000万m3/haの年間成長量があるのか。なんだかそこが微妙な気がしていて、これが実はもっと低いということになれば、彼らの算数は瓦解していることになる。

フィンランドの木材生産量自体は7,000万m3から増加を続け、8,000万m3に到達している。それを維持するための灌漑なのかもしれないし、維持できないということであれば、生産量は落ちる。いずれにしても成長量と均衡した生産は、生産性の上では理想的だけれどけっこうリスキーだなとは思う。


適正な価格で取引されれば、パルプにしようが燃やそうが捨てようがどうでもよいというのが資本主義の原理なのかもしれないけれど、万博のおかしな屋根を作るために使うのは、はるばる遠路お越しいただいた木材にとってもいささか不思議な気持ちかもしれない。せめて二次、三次としっかり利用して、最後はりっぱなバイオマスとなってほしい。あれはレガシーになっちゃうやつなのかしら。


2025年2月8日土曜日

2月の草むしり

 東京は冬、雨が降らない。こんなに降らないんでしたっけ。

帰ってきた東京出の2回目の冬を過ごす。おおむね、空は青く、ひどく乾燥している。湿度100%の裏日本からやってきた身としては、やっぱりずいぶん遠くに来たもんだと思う。

それでも、少しずつ雑草は生える。春になると厄介なので、この時期も草むしりをする。


仕事の大半は農業です。ご案内のとおり。勤め人だった頃よりもずっと外にいる。農業だから晴耕雨読だな、と僕自身も思っていたんだけど、東京は思った以上に年中晴れていて、雨読している間があんまりない。やっぱり年の半分くらい雪に包まれていた方が、休みがいがあると思うんだけど。

思い返すと、10月あたり稲刈りの時期に雨に降られた。それ以降、主だった雨はない。3ヶ月くらい。10月末くらいか、来年用の豆とにんにく、玉ねぎを植えた。乾き切った畑に。

こんな乾いていて出るものか。虐待的な錯誤だと思った。だって僕だって乾燥肌がひどいんですもの。お医者様に処方された、ワセリン的保湿剤をせっせと塗り込むのが冬の日課でもある。しかし、ぼぼ農家たる相方は泰然としている。

豆やらにんにくやらは出るのだ。灌水しているでもないから、水収支的に変だなあと思うのだけれど、あいつらは出てくる。雑草も出てくる。少ないにしても、土中に水はあるのだ。

この時期、大してでかくならない。やっぱり限定要因は水だろう。もう少し雨が降って、もう少し気温が高ければ、当然大きくなるんだろう。この時期的な仕事として根系の成長が優先されているのかもしれない。ただ、数少ない雨のタイミングをつかまえて、一雨ごとにしっかりしてくる感じはある。


きつねにつままれた気分ではあるのだけれど、合間を見つけて草をむしる。

2024年12月1日日曜日

歌い手が変わること

エミリー・アームストロングさん。全然知らないけれど、ごっついスクリームですね。

PVのフッテージも転がっていて、楽しそうなのがいいと思いました。


2024年11月22日金曜日

ある日、バノンの養老院で

コミューンみたいですよね、と彼は云うんだ。たぶんいい意味で。

えー、と思いながら、そうかもしれない、と応える。

僕はやや不本意だった。でもうまい反駁も思いつかなかった。でもまあそう云われてみれば、それはたしかにこれはコミューンのようだった。

2024年10月11日金曜日

まなざし

写真で自分の顔をみるのは好きじゃない。そういう人は多いと思うから、僕もそのひとりだ。

2024年9月11日水曜日

枯れない人

枯れてると思うんだけど、なお元気。そういう人っていますよね。

ひさしぶりにBrrrrrn!を買ったんですよ。Mr.Bigだったから。



最後のレコードなのかどうかはわからないけれど。

リーダートラックの"Good Luck Tryng"が公開されて想像したものと割と近い印象。どちらかというと地味なブルーズロックで、かといって"Get Over It"ほど地味でもなくて、そこここに聞き応えのあるプレイやメロディが散りばめられている。華やかさでいえば前作に譲るかな。

聴きながら、やっぱりパット・トーピーの幻影を探してしまっていた。今作のドラムさん(名前は知らない)は、高い技量を持っているから選んだと言っていた。

しかし、そう言う割にと思ってしまう。

弦楽器玄人を向こうに回して激しくスイングしてみせたり、この人だって只者ではない。しかし、なんて色気のない音色なんだろうと思った。位置価としては前作までサポートしていたマット・スターと同じ「透明な人」だ。

この場所で太鼓を叩く人は自分の色が出せない。それこそが巨大な不在を象徴している。パットよりもテクニック的に秀でているかどうかはあまり問題ではない。というか、「パットよりも秀でてはいけない」という無言の圧力があるように思うんだ。

いっそのこと、グルーヴィでアホみたい我が強いマイク・ポートノイが叩けばずっと面白かったろうな。本気でギターとベースを食いにくることで生まれる緊張感を想像するとワクワクするけれど、それはつまりThe Winary Dogsだ。


本編最後に持ってきた曲。抒情的で心に沁みる、今の彼ららしい佳曲だ。


声を張り上げるコーラスでちょっとキーを下げているのが面白いし、なんともよい。影が作り出されたような。重苦しいわけじゃなくて、静かな余韻が漂う。

エリック・マーティンのキーは昔より下がっているし、今さらそんなに張り上げる必要もない。声の束、という感じ。一度にいろんなキー・方向性の音が出ていて、多数決的にそのキーに聞こえる、みたいな。声質は違うけど最晩年のクリス・コーネルを思い出す。

ボーナストラック扱いでインストはあるけど本編はこれが最後。

でもなんでこれなんだろう。


彼はまたしても失ったのだな。どうしてこうも失うのだろう。謳い文句どおり「最後のレコード」だからなのか、それともたまたま選んだ曲のテーマが荒んだ男の私生活だったのか。

写真は丁寧に切り取られ名前を失った かつての「外せない」男は今や写真にも残らない

悲しすぎる。これが熟年離婚か。僕も気をつけていきたいと思います。インタビューを読んで思ったけれど、彼は赤裸々すぎるだろうと思いますよ。細かいことは彼に訊いてよ、とポールが話をそらしているくらいに。こんな人が近くにいたらちょっと引くよね。ちょっとした話を歌にされてしまうかもしれない。




「仲間外れにしないで」と歌ったソロ・レコードは、なんというか真摯な音作りだった。バンドの成功で自己肥大しまくっていたはずの自意識は削ぎ落とされ、ミニマムなバンドサウンドと丁寧な歌唱。この頃はちゃんとメロディを丹念に追うしファルセットも色気たっぷり見事でした。

それから四半世紀。60を過ぎてもバカは治らない人は失い、嘆く。よくある話だ。かつては、誰かが去ったのか、自ら去ったのかはわからないけど、存在の欠落による悲しみ。実世界の僕らは欠落感にしばしば打ちひしがれる。


すごく小学生みたいなことを言うと、63歳になってもそんな思いを抱かなくてはいけないのか、と思う。そんなことを言えば子どもの僕からしたら40代はほぼ無敵の人という印象があった。実際40代になってみると、もちろんそんなことはないのだけれど。

するとどうやら、まだ僕はこの先傷つく。60代がこんな事柄で出血しているとすれば、そうなのだろう。60歳になれば悲しみに強くなるとか、そういうことではないんだ。この先「よくある話で」「予定通りに」傷ついてしまうバカは僕であり、もしかしたらあなたでもある。


失うことで輝く、稀有のシンガーだ。可哀想に。これからも佳曲を捻り出すため、私生活をどんどん切り売りしてどんどん失われろ、エリック。とは思うのだが。

21歳とか28歳とか34歳とか48歳で終わりにすれば、その先は永遠に傷つかない。そこからすると、71歳に「日頃の行いが悪い」と叱られる63歳のバッドボーイは不幸なのか。

もうなんだかよくわかんねぇな。

思うんだけど、エリックってそんな損得をハナから考えてないだろう。どれだけ切り売りしてもなお損なわれない。彼の「少年時代」はまだ続いていることではないか。逆説的に。



2024年9月3日火曜日

たくさんエントリーはあるのだけれど、

なんだかうまく文章にならないな。書いているうちにいやになってしまう。

たんなる日記的なエントリーとして。

そう、今日メガネを買いました。老眼がけっこう進んでしまって。

目も耳も悪い。悪いことに悪い意味で慣れてしまうと、たぶん僕はすごく卑屈な人間になる。それは本意ではないし、相手にも悪いだろう。

初の本格的な遠近で、慣れるまで少し大変そうだけど、まあそのうち良くも悪くも慣れるだろうと。