2024年11月22日金曜日

ある日、バノンの養老院で

コミューンみたいですよね、と彼は云うんだ。たぶんいい意味で。

えー、と思いながら、そうかもしれない、と応える。

僕はやや不本意だった。でもうまい反駁も思いつかなかった。でもまあそう云われてみれば、それはたしかにこれはコミューンのようだった。

2024年10月11日金曜日

まなざし

写真で自分の顔をみるのは好きじゃない。そういう人は多いと思うから、僕もそのひとりだ。

2024年9月11日水曜日

枯れない人

枯れてると思うんだけど、なお元気。そういう人っていますよね。

ひさしぶりにBrrrrrn!を買ったんですよ。Mr.Bigだったから。



最後のレコードなのかどうかはわからないけれど。

リーダートラックの"Good Luck Tryng"が公開されて想像したものと割と近い印象。どちらかというと地味なブルーズロックで、かといって"Get Over It"ほど地味でもなくて、そこここに聞き応えのあるプレイやメロディが散りばめられている。華やかさでいえば前作に譲るかな。

聴きながら、やっぱりパット・トーピーの幻影を探してしまっていた。今作のドラムさん(名前は知らない)は、高い技量を持っているから選んだと言っていた。

しかし、そう言う割にと思ってしまう。

弦楽器玄人を向こうに回して激しくスイングしてみせたり、この人だって只者ではない。しかし、なんて色気のない音色なんだろうと思った。位置価としては前作までサポートしていたマット・スターと同じ「透明な人」だ。

この場所で太鼓を叩く人は自分の色が出せない。それこそが巨大な不在を象徴している。パットよりもテクニック的に秀でているかどうかはあまり問題ではない。というか、「パットよりも秀でてはいけない」という無言の圧力があるように思うんだ。

いっそのこと、グルーヴィでアホみたい我が強いマイク・ポートノイが叩けばずっと面白かったろうな。本気でギターとベースを食いにくることで生まれる緊張感を想像するとワクワクするけれど、それはつまりThe Winary Dogsだ。


本編最後に持ってきた曲。抒情的で心に沁みる、今の彼ららしい佳曲だ。


声を張り上げるコーラスでちょっとキーを下げているのが面白いし、なんともよい。影が作り出されたような。重苦しいわけじゃなくて、静かな余韻が漂う。

エリック・マーティンのキーは昔より下がっているし、今さらそんなに張り上げる必要もない。声の束、という感じ。一度にいろんなキー・方向性の音が出ていて、多数決的にそのキーに聞こえる、みたいな。声質は違うけど最晩年のクリス・コーネルを思い出す。

ボーナストラック扱いでインストはあるけど本編はこれが最後。

でもなんでこれなんだろう。


彼はまたしても失ったのだな。どうしてこうも失うのだろう。謳い文句どおり「最後のレコード」だからなのか、それともたまたま選んだ曲のテーマが荒んだ男の私生活だったのか。

写真は丁寧に切り取られ名前を失った かつての「外せない」男は今や写真にも残らない

悲しすぎる。これが熟年離婚か。僕も気をつけていきたいと思います。インタビューを読んで思ったけれど、彼は赤裸々すぎるだろうと思いますよ。細かいことは彼に訊いてよ、とポールが話をそらしているくらいに。こんな人が近くにいたらちょっと引くよね。ちょっとした話を歌にされてしまうかもしれない。




「仲間外れにしないで」と歌ったソロ・レコードは、なんというか真摯な音作りだった。バンドの成功で自己肥大しまくっていたはずの自意識は削ぎ落とされ、ミニマムなバンドサウンドと丁寧な歌唱。この頃はちゃんとメロディを丹念に追うしファルセットも色気たっぷり見事でした。

それから四半世紀。60を過ぎてもバカは治らない人は失い、嘆く。よくある話だ。かつては、誰かが去ったのか、自ら去ったのかはわからないけど、存在の欠落による悲しみ。実世界の僕らは欠落感にしばしば打ちひしがれる。


すごく小学生みたいなことを言うと、63歳になってもそんな思いを抱かなくてはいけないのか、と思う。そんなことを言えば子どもの僕からしたら40代はほぼ無敵の人という印象があった。実際40代になってみると、もちろんそんなことはないのだけれど。

するとどうやら、まだ僕はこの先傷つく。60代がこんな事柄で出血しているとすれば、そうなのだろう。60歳になれば悲しみに強くなるとか、そういうことではないんだ。この先「よくある話で」「予定通りに」傷ついてしまうバカは僕であり、もしかしたらあなたでもある。


失うことで輝く、稀有のシンガーだ。可哀想に。これからも佳曲を捻り出すため、私生活をどんどん切り売りしてどんどん失われろ、エリック。とは思うのだが。

21歳とか28歳とか34歳とか48歳で終わりにすれば、その先は永遠に傷つかない。そこからすると、71歳に「日頃の行いが悪い」と叱られる63歳のバッドボーイは不幸なのか。

もうなんだかよくわかんねぇな。

思うんだけど、エリックってそんな損得をハナから考えてないだろう。どれだけ切り売りしてもなお損なわれない。彼の「少年時代」はまだ続いていることではないか。逆説的に。



2024年9月3日火曜日

たくさんエントリーはあるのだけれど、

なんだかうまく文章にならないな。書いているうちにいやになってしまう。

たんなる日記的なエントリーとして。

そう、今日メガネを買いました。老眼がけっこう進んでしまって。

目も耳も悪い。悪いことに悪い意味で慣れてしまうと、たぶん僕はすごく卑屈な人間になる。それは本意ではないし、相手にも悪いだろう。

初の本格的な遠近で、慣れるまで少し大変そうだけど、まあそのうち良くも悪くも慣れるだろうと。

2024年4月27日土曜日

予感としての前向きさ



好きなんですよね。「アメリカン・アイドル」の彼女はもう10年選手。なんでなのかわからないけど、ずっとフォローしている。今作も全体的にいいレコードだったし、いくつも好きな曲はあったんだけど、はっとしたこの曲。


英語よくわかんないから歌詞が不穏じゃないかって。だって「あなたが(他の街から来た(新しい))銃弾に倒れた」ってあんまりハッピーじゃなささそうでしょう。なにこれシリアスな悲しい歌なのかしら、と思うじゃないですか。

でも良かった。どうも誰も撃たれていないみたいだ。現実的な意味で。

Meaning of ​​​​​​young gun by Tori Kelly (Ft. Jon Bellion)


現代アメリカ人R&Bシンガーよろしく、ソウルフルに歌いきっちゃうのが通常運転の彼女が、この曲では声の表情を掻き消し、マシナリーな歌唱に徹しているのがまず面白い。

そしてデュエット相手のジョン・ベリオンも素晴らしかった。トリーと同じく機械に徹していて、オクターブ下でユニゾンで窺い、2コーラス目でファルセットでトリーと同じキーに立つ。そのとき、二人の声よりもずいぶん高いところで倍音が聞こえて、それも非現実的な浮遊感を演出する。

最後のコーラスで、2人はようやく機械であることをやめ、その身体を浮かび上がらせる。そんな構成。

声は対置され、溶け合い、呼び合う。もちろんヴォコーダーだとか機械も使っているんでしょうけど、完全にアイディア勝ちの運び。

変な色気を見せて引き伸ばしたりせず、3分くらいで半ば唐突に終わるのも好い。僕は置いてけぼりになってしまってはじめて、なるほど、今度は僕が考える番なのか、と思う。

元彼(女)は銃弾に倒れる。もちろん象徴的な意味で。しかし後に残る余韻は不思議とポジティブだ。そうか、じゃあ私は「これから」どうしようか。


彼女の声はどことなくナタリー・インブルーリアを思い出させる。トリーのほうがずっと上手いと思うけれど。

"tone"は好きだった。97年。18歳の頃だ。少しハスキーな声で歌われる、手つかずの新しい朝、みずみずしい世界。そんなイメージ。ヒットしたと思う。たしか、飲み物のCMでも使われていたはずだ。

97年はあんまり希望ある年ではなかった。ふわふわ・どよよーんとしていたし、翌年は浪人生として1年を過ごすことになるのだ。わたくしごとではありましたが。それでもこの曲を聴くと頬に新しい風を感じるような、そんな気持ちになった。


当時二十歳そこそこだったナタリーは今や48歳なのだそう。タボっとしたパンツをはいた、どこか気だるい、当時としては実に現代的だった雰囲気の彼女しか知らない当時10代の44歳は、そのことに少し衝撃を受ける。でも曲がりなりにも彼女も僕も今も生きている。

あなたが誰であっていくつであろうと、新しい朝はいつもあなた待っている。「これから」をよすがに、僕らは「ずっと」生きていけるのではないか。もちろん象徴的な意味で。



2024年4月2日火曜日

なすことに、あまり深い意味を持たせてはいけない

がっかりするのは自分だからな。そういうのって敗北主義なのかしら。


最近企業のCSR活動にお邪魔する機会も出てきて、なんだかもやっとしている。この種の活動は平たく言って、環境教育などとも呼ばれる。で、教育とはなんだろうと。

教育とはすべからく洗脳であるという話はちらほら目にしていて、それはまあそうだろうと思う。


朝岡先生。環境教育の。大学院のとき授業を取った。なんだか先生は「たとえばゴミ問題がやりたいんです」といって研究室に来る学生がいるんだけど、そういうことではないんだとおっしゃっていた。環境に配慮した主体を育成することが大事なんです。そう言っていたような気がする。なるほど。ではどうしたら環境配慮的主体が育成されるのか。そこは残念ながら忘却のかなた。大事なところなのに。まじめに授業を受けていればよかったですね。

でも環境配慮的な主体を洗脳して育成するっていうことなんだろうか。あるいは情操教育は?情操の豊かな主体を洗脳して育成するのかしら。なんだかそれって変じゃない?

書いていて気がついた。僕は「教育」が好きではないんだな。そうはいっても僕は子どもには僕なりのモラルを押し付けているような気がするし、パターナリスティック(実際父親ですからね)の誹りは免れないことも自覚している。

親「ごとき」が、教育者「ごとき」がその人を変えるという考え方・意思が、ひどく傲慢なものに感じられる。そういうことなのではないか。親としての僕は、子どもの振る舞いにひどくいらついていますけども。ときおり、ときおり。

不完全な者が未分化の者を教導する。せざるを得ない。それは「てめえだって半端者のくせしてなに偉そうなこといってんだ」的15の夜的感情と「でもにんげんだもの」的みつお的酌量の余地を求めるエクスキューズの感情のミクスチュアであり、つまりそれは僕だ。ああ僕だ。


誰かを教育してやろうとする人にはそれなりの思惑がある。大人ですから。育成して楽がしたかったり、やってます的社会貢献アピールだったり、購買意欲喚起だったり、予算消化だったり、暇つぶしであったり。あんまりそこで目くじらたててもしょうがない。僕も大人だし、おこぼれにあずかっているし。

たとえば、教育の目指す先が社会変革だとか、グローバル人材の育成だとか、なんだか地に足がつかないことを言い始めると、とたんに傲慢な感じがする。そういうてめーはどうなんだ、と思ってしまう。あーわかった。僕は「教育」が嫌いなんじゃない。「主体形成」が嫌いなんだ。ごめんなさい朝岡先生。投げたサイコロの行き先をコントロールしようとする企て。わかるよ。したいよね。でもお前だって不肖の息子・娘だっただろ?ということなのだろう。きっと。

ただ実際のところ、教育されている主体は勝手に「よいもの」を取捨選択しているはずなので大方、教育者が願う主体には形成されない。心配せずとも不肖の息子・娘は再生産される。

そのようにして教育者の野望は潰えるのだ。ざまみろ。とほほほほ。


将来のことを考えると環境配慮的な人を育成するのはまあ、たぶんそれほど悪いことではない。一般的に。平たく言って。では、あんまり傲慢にならず、そういうことをするにはどうしたらいいのか。

事実や知識の授受だけなのかもしれない。これはカエルです、これが白菜です、これが複素数です。もう少しあるな。社会的なコード。これはドの音です。様々な社会的なコードを示す。

そこから先はその人次第だ。君の好きなコードで楽しめばいい。

僕らが言えるのはそこまでなんじゃないのかな。




2024年3月10日日曜日

なんとなく1年が終わろうとしている

 はやいなあ、と思う。

去年の今ごろはどうだったか。去年の来週に大きな仕事が入れられた。1年後、どうもそれはうまく実を結ばなかったようだ、と風聞に聞く。その仕事は前の職場であとに残そうとして取り組んだ仕事でもあった。うーんそうか。残念だったなと思う。

それでも世界は進んでいく。「自分の不在」とは、世間的、もっといえば会社的には全く大したことがなかった。そのごくあたりまえのことを改めて知った1年間でもあった。僕がだらだらと枝を折り、かまどに放り込みながら豆を煮ていても、世界は猛スピードで動いていく。

おかしいのは僕か世界か。そうは思うけれど、早いこと知れただけよかったかもしれない。僕だって1年前までは理不尽な理由で自分自身を、すごく悪い意味で調練していたかもしれない。「しょってる」と言われれればそれまでだけど、本人は字義通り背負ってるつもりになっている。そして事故に至るケースはままある。だから、僕の脱洗脳には少なくとも成功した。

それとしてスピードの差異を埋めるのは別の話だ。僕は遅すぎるのか、世界は早すぎるのか。

どんなに世界が早く動いても、僕の自我が激しく取り残されていたとしても仕方ないじゃないか。僕はあんな速度では動かない・働かないと決めた。だからこれは、望んだ弛緩であり、望んだ孤独なんだろう。

緩んでいる割に、なんだか気忙しいのがなんともかんとも。