2011年9月25日日曜日
「それ」を捨てる
たぶん、山奥のどこか。害が無くなるまで。その時間はきっと、僕にすれば、未来永劫と呼んでいい時間だ。
恩師の野口俊邦は、国有林にはそれとしての機能がある、と述べる。彼の主張、今でもちゃんと思い出せるだろうか。森林の公益的機能についてもいろんな文献があるからいいとして、「最後の貸し手」ならぬ、木材を生産する「最後の供給者」としての国の役割をも彼は語る。
それはとてもスジの通った意見だ、と思っていた。でも、スジが通っているだけに、その考え方の頽勢もしっかり見えてしまうような気持ちにもなった。だってそうでしょう?スジが通っているように思えるのに、それがうまくいっていないのだから。
それは、うちの林学科全体をもやのように薄く覆う、頽勢であったような気もする(今は知らないけど)。まるで林業という斜陽産業行きのバスに、意図せず乗りあわせてしまったような感じで。高校生がそんなことを知るわけがないから。文学部とか経済学部にいたら、きっとそんなことは思わなかったろう。
そもそも学問に停滞などあるのだろうか。わからない。とりあえず、僕らはクールでもヒップでもなかった。きっと気の利いた学生は、「なんとか政策学部」とか、「環境なんとか学部」とかに行ったんろう。
意図せず乗り込んだバスがついた先は、僕の場合は今のところ、ベトナムなのだが、それはまた違う話だ。
学生のころに聞いた、「スジの通った意見」も、それを鼻で嗤うような意見も、「それ」を捨てると聞いてしまった今、なんだか、どこか遠くに行ってしまったように感じられる。学生のときに見たいくつかの、林業への構想も理想も、それへの嘲笑も、「それ」と一緒にに埋められていくような感じ。そこで育っていた木々は、無価値どころか、有害なものと隣り合わせとなり、自身も有害なものとなるんだろう。今、野口に聞いたら、残土捨て場も「公益的機能」のうちに含む、というだろうか。
どちらにしても、きっと、仕方のないことなのだ。
ゴミ捨て場にされるに至る物語が、どんなに森林の「(ゴミ捨て場としての)機能」の正統性を語ったとしても、今のところ、マトモな気持ちで聞ける気がしない。それは、森林が(かつて)持っていた「機能」の物語を、ずっと聞いてきたから。そこを単なる「場所」と割り切ることで、初めて、ゴツゴツとした違和感満載ながらも消化することができる、ような気がする。「ゴミ捨て場の物語」は、耳を傾けるのを拒絶したくなってしまう。来年の白書は「ゴミ捨て場としての森林」という項ができるのだろうか。
もしかしたら、僕らはどこかで、「捨ててしまって、せいせいした」と考えてしまうんじゃないだろうか。もちろん、「それ」は危険で、人の近くには置いておけないものだ。では、置いた場所は考えなくていいのか。そんなことは、ないはずだ。いろいろな人が、その場所についていろいろなことを考えてきた。妥当な、仕方のない処置であっても、今までの物語とは断絶した「何か」をしていると考えるべきなのだ。
だから、それはきっと、僕らが忘れてはいけないことだ。人から遠ざける必要があるから、山に隠すんだ。人のいない、人が見ていない山奥に。こんなに実際とメタファーが重なり合っていることって、ほかにあるだろうか?