2011年12月1日木曜日

COP17についてのあれこれ

少し目を逸らしていたら、ということもある。
附属書Ⅱ国にいるせいだろうか。せっかくCOP17も始まったことだし。
原発ばっかりじゃ困るんだぜ、というところで、国際環境NGOの日本支部がなんかキャンペーンをしているかをサーベイしてみる。
ありますね。

WWF
http://www.wwf.or.jp/activities/2011/11/1024202.html
Friend of the earth Japan
http://www.foejapan.org/climate/cop/cop17.html

Green Peaceについては見つからず。福島で大車輪の活躍を挙げているので
http://www.greenpeace.org/japan/ja/
まあ、仕方がないとしておく。一連のスーパマーケットとのやりとりは実に興味深く観察させてもらいました。

ああ、気候ネットワーク忘れてた。
http://www.kikonet.org/theme/kiko.html

ダーバンでの交渉の経過はじっくり観察させてもらうことにしよう。




以下、気候変動に関する基本的なことを備忘録的にまとめる。最近そんなこと全然考えてなかったから。物忘れが激しいので。

○京都議定書の第一約束期間は2008年〜2012年。来年まで。第二約束期間以降の取り扱いについてはまた交渉する:次期枠組が京都の延長であるのか、違う枠組なのかが今議論されている。
○議定書の根拠は気候変動枠組条約。考え方の基本は、予防原則に基づいた行動を行うこと。つまり、その事象(ここで言えば気候変動が発生すること)の因果関係が十分に立証されない状況にあっても対応する措置をとる、ということ。その理由は、気候変動による変異(変な言い方)が不可逆的かつ深刻な影響を人的活動に及ぼす可能性があるから。
○IPCC(気候変動に関する政府間パネル)のレポートは気候変動が起こっていることについて、疑いがない、と述べる。それは、人的活動による寄与によるものだとも。
○京都議定書の削減義務について。先進国(附属書Ⅰ国)に削減義務がある。開発途上国(附属書Ⅱ国)には削減義務が課されていない。日本は90年度比6%の排出削減を約束した。大手排出国のアメリカは離脱済。
○COP/MOP(議定書/条約締約国会議、今はCOP17)では、先進国は人口が多く、工業活動が活発な途上国、例えば中国などにも削減義務を求めるが、発展を阻害するものとして途上国は反発しており、妥協点がなかなか見いだせていない。COP17もきっと難航するんだろうな。
○京都議定書は、自然災害や気象災害による温室効果ガスの増加について、発生国の免責を認めていない。簡単にいえば、地震が起きようが日本の削減約束は変わらない。火山の噴火による排出増とか。
○京都議定書には約束不達成に関するペナルティ/罰則規定がない。

と、いうところだな。ほかにもいろいろあるけれど、まずはそんなところだろう。
羅列すると、まったく穴だらけのゲームだな。



ここに2つの記事がある。
・カナダに関して言えば、記事を読む限りちょっと厳しい。排出量が増える見込みがあるならば、排出枠をほかの国から購入する選択肢(京都メカニズム)を検討していなかったのか。例えばロシアは広大な森林(吸収源)があって、産業活動が停滞していたので、この間に関してはどえらい排出枠を持っていた(いる)。いまから排出枠を購入できるものなのか、よくわかない。
ゲームそのものを軽視していたか、あるいは、はじめからゲームのルールを守るつもりがなかったか。だとしたら、はじめからゲームに乗らないほうがよかったのでは、と思わなくもない。アメリカみたいに。

・日本について。少し詳細に見てみる。
京都議定書の第一約束期間において、日本は90年比6%、1300万炭素トンの削減が必要。90年比というところがキモで05年ベースで考えると、13.8%の削減が必要だった。つまり13.8-6.0=7.8%が追加的な削減量となる。
ちなみに05年当時、僕は約束達成は絶望的だと考えていた。
ちなみに6.0%の内訳。森林吸収源で3.8%、京都メカニズムで1.6%、合わせて5.4%分を除いた0.6%を実質的な削減分として見込んでいた。当初はわずか10%の「真水」だった、ということ。そして、05ベースではそれすら困難だったこと。

ここに環境省の09年度の速報値がある。10年度はまだ公表されてないのかな。
これを見ると排出量は12億900万炭素トンとあるから、この年に関しては日本の削減約束量を満足している。09年度だけで考えれば1990年以下の排出量だった。また、森林吸収源も京都メカニズムも使う必要もない。不況は排出を真水で削減してしまった。
ただし、削減量は08年〜12年の平均だったはずで、08年はオーバしているので、残りでカバーしなくてはいけない。
よくまあ落ちてくれたもんだという感想もある。

今後についていえば、震災の影響がある。産業部門は縮小しているだろうから、民生部門の排出量は一時的に減っただろう。一方で、原子力の代替電源源として火力発電の排出量は増えている。11年、12年の排出量を注視する必要がある。




ここからだけが本題と言っていいのだけれど、僕は2つのことを考えている。

1つ目は、まずは条約のレジーム(枠組み)保持にこだわるべき、ということ。この枠組みはとても壊れやすい。その理由は、想定される被害はあくまで予測でしかなく不確実さが伴うことと、罪業の深さが違う人たちがともに削減を達成するゲームだからということ。

予防原則に基づく対応の難しさは、リスクは白黒つけられないからリスクだという性質による。絶対に交通事故に合うと分かってるなら、みんな車に保険かけるだろう。そもそも車乗らないか。
被害を大きく見積もるか、小さく見積もるかによって、
あるいは大きく見積もりたいか、小さく見積もりたいか、
によっても受け取り方は違う。

だから予防原則を投げてしまうオプションももちろんある。そんな問題ねーよ、と。武田邦彦のような。余談だが、彼が福島の野菜を食べるな、と発言したのを聞いた時、この人は本当にグレーなリスクを受け付けない人なんだな、と思った。それはまあ、人による。
僕としては、気候変動ウソ説よりも気候変動ホント説の方が蓋然性があると考えるので、予防原則を支持する。

話を続ける。
仮にその国に生まれた人が永遠に生き続けるならば、ゲームの条件としてはもう少し簡単かもしれない。永遠の命を持つ人ならば、かつての責任を問うことができるから。
しかし、現実はそうではない。その国に生まれたのは、所与の条件でしかない。例えば今日先進国に今生まれた赤ん坊に、かつての責任を問い得るか。その国のライフスタイルで過ごしてしまう責任を問い得るか。


そんなこんなで改めて確認する。今に生きる我々は、気候変動の影響は避けるべきか。もちろん、それはなんとしても避けるべきことだ。たぶん、利害の異なる参加者に共通するベースはそこしかない。
だから、そこから泥縄式に交渉を続けていくしかない、ということ。かなりフラストレーションのたまる交渉を。

そのことが、限られた時間しか持たない人間が、(さしあたり)無限の時間を持つ国家という名前を背負うこと。そして、僕らの子どもに対して(いまのところいないんだけど)、しっかりと顔を向けていくことであるよう思えるから。
テーブルに付くのをやめてしまった、アメリカ(あるいはカナダ)といった先進国の選択に陥穽があるならば、たとえばツバルといった今現在、危機を全開で感じざるを得ない国々に応答する言葉を持たないこと、そして、自分の子どもや孫に伝える言葉を持てないこと、なのではないか。

だから、苦しいけれどレジームはなんとしても守る。いろいろ状況が変わってうまくいかないことはあるだろうけれど、テーブルは離れてはいけない。



2つ目は、今回に関しては日本は約束不達成でもいいのではないか、ということ。
信用失墜とか、あるだろうけれど。もちろん、交渉はしっかりとやったらいい。山口光恒の論考なんか、非常に参考になる。

まず、リーマン・ショックに始まる(だっけ?)一連の不況がなかったら日本の排出量は減少しなかっただろう。繰り返すが、05ベースでは日本は−6%分のパッケージしか持っておらず、無策であった(ようにしか見えなかった)。このことは、爾後の震災と切り分けて考える必要がある。
そしてなにより、震災後、僕らが覗いてしまったのは原子力や放射能への恐怖だった。温暖化に関する環境省の資料の中に「原子力発電所の稼働率が84.2%であった場合」という文言とか、もはや悪い冗談にしか映らない。でも3月11日までは、普通に通用していたことでもあった。

フクイチ君をいつまで冷却しなくてはいけないのか、溶け落ちた燃料が取り出せるのか、その燃料をどうするのか、ということを考えると、ああ、大変だな、と誰だって憂鬱になるだろう。もはや電気を産まないパワープラントにどれだけ電気とお金が必要なんだろう、と言い換えてもいい。


温室効果ガスは将来的に大きな被害をもたらす可能性がある。どうもそうらしい。
一方で、放射能によるカタストロフは喫緊、かつ長期的なことだった。いま、身を持ってその事実を体験し、あるいは将来のことを考えて震撼している。

現在の火力発電所による排出増は、原発のリスクと温室効果ガスの増加のリスクを天秤にかけたということでもある。リスク総量の比較はともかく、少なくともどちらが速やかなリスクなのかは、今の僕らは知っている。
あるいは、少なくともカタストロフに直面したときに、火力発電による大幅な排出増で対応するしかないということも僕らは知ったはずだ。



いろいろあって、我々は自らに課した約束を果たすことができなかった、とみんなの前で述べることはそれほど悪いことではない。一時的に排出量を増やしてしまう。ごめんなさいと。ペナルティもないことだし、あったとしてもそうすべきだろう。
それでも気候変動枠組条約にコミットし続ける姿勢を日本が取りつづけることができるのであれば、僕は評価する。


大きな災厄に見舞われたことは確かだ。それはとても大きな悲劇だった。
だがそれでもう片方の責任が免責されるわけではない。
どちらか一方だけが大事なのではない、どちらも大事なのだ、ときちんと言えること。一方の災厄で、もう片方を見失わないこと。それが大切なのではないか、と思うんだ。