2012年4月22日日曜日

北部の風景
















出張でハノイに来ていた。会議を終え、夕方のフライトまでいくらか時間があったのでドンラム村へ。

この9ヶ月で4回ハノイに足を運んだが、どうも好きになれない。埃っぽいし、排気ガスがすごいし、夏は暑く冬は寒い。絶対身体に良くないだろう、と。同じ都会でもホーチミンは、風があるし、スコールがある。
と、いうことであんまり北部に好感は持っていなかった。



ただ、北部にはなにやら不思議な影がある。埃っぽい大通りから、路地に入ったところ。建物を覆い尽くすような木々の濃い緑。人の営為を壊しながら、調和するもの。なんだかわからない。わからないけれど魅力はある。そんな気はしていた。


ふと思い立ったので、カメラはもってきてない。残念だけれどipodのカメラで。説明は下記がいい。写真もきれい。
http://www.vietnam-beauty.com/cities/ha-noi/4-ha-noi/235-duong-lam-ancient-village.html

















ドンラム村はハノイから車で1時間。ハノイの市街地を抜けていくと少しずつ田園地帯が広がっていく。ドンラムとは面白い名前だと思ったら、ここに住むボランティアに Đường Lâmだと教えてもらった。砂糖の林。かつてここはサトウキビが生い茂っていたという。なるほど。

田んぼは南部にもある。というか、メコン・デルタこそ世界の穀倉地帯だ。しかし、こちらの田んぼはずいぶん親近感がある。日本の田んぼによく似ている。整然と区画管理されていること、ちゃんと田んぼになっていること。
メコン・デルタの田んぼは田んぼではないのか。そんなことはない。でも、水の量があまりにも多すぎる。乾いた土地が少なく、水が溜まっているところが多い。稲作というよりも、その溜まっている水たまりに稲を放り込むように見えなくもない。
水と栄養が豊かすぎるのだ。自然に抱かれて、無邪気に2回も3回も稲を収穫しているのがメコン・デルタ。
それほど水も栄養も豊かではないところは、きちんと管理しなくてはいけない。だから、同じ田んぼでも風景が変わってくる。そんなふうに努力して管理された田んぼはちょっときれいだ。

ドンラムは歴史的街並みとして保護されているとのこと。旧家は保存され、修復される。また、新築する際にも規制があるという。
現在2名、建築と村落の日本人ボランティアがここに入り、活動している。

僕は僕が想像していたベトナム的な風景というものに、ここで初めて出会えた。
家がしっかりしているというのは、ちょっと、我らがウミンではない。ウミンにあるのはお金持ちがつくったモルタルの家か、東屋のような農民の家の2択しかない。どちらにしても、たぶん20年ももたない。それは、南の人が永久構造物を作る、という意図を持たないこともあるし、酸性度の高さや塩分やシロアリにより朽ちてしまうからだ。修理に値する建物というのは、メコン・デルタにはあまりない。
そう、家が家としてしっかりしてるのがいいなと思った。なんというか、安心感がある。


赤茶けた壁に整理された街並み、それを覆う緑。壁の向こうには、たくさんの緑。寡黙で遠慮がちに見える人たちが生活していた。聞いた話では西暦200年代からのお話がある。ベトナム人の大好きな英雄譚だ。考えてみれば当然だ。ここは中国との係争地の歴史が長いのだから。単に建物が古いのではなく、この場所はストーリーを持っている。

メコン・デルタだってもちろん歴史はある。ただ、語られるストーリーはといえば、19世紀にようやくフランスとの関わりにおいて顔を出す。その意味で、メコン・デルタは語れることは、いくらか少ないかもしれない。積み重ねられた歴史が違う。















アクセスが良好だということもあって、外国人も含め多くの観光客が来ていた。
案内してくれたボランティアが言うには、ここはもともとコミュニティの力が強い、言ってしまえば排他的な場所であったという。だからこそ、この街並みが残っているとも言えるし、現在の商売っ気にどういう風に結びついているのかという興味もある。単純に人は変わる、ということかもしれないし、それがここに住む人の生きる道だと認識しているからかもしれない。実際のところ、そんなに商売っ気はないらしい。
変わりながらも、コミュニティは維持されていくのは、なんだかいいことだ。















ベトナムは基本的に、北部の人は南部の人が嫌いで、南部の人は北部の人が嫌いだ。北部の人は頭ばよくて、ずるくて、暗くいそうで、南部の人は、陽気で、何も考えていないそうだ。
外人からすると、北部の人にはある種、抑制が効いている感じがする。ズルイ、というのはよくわからない。たぶんズルイ人はどこにでもいる。
北部の人は声が小さく、キビキビとしたベトナム語を喋っている気がする。聞き取りやすいベトナム語。理解できるかはまた別だ。

抑制が効いていることは、別に良い悪いの話ではない。ただ、抑制の効いた人は個人的に好きだ。あけっぴろげな南もいいが、しずしずとしている北の雰囲気は、なにやら好ましい。あ、寒いのはきらいなんだけれど。

2012年4月17日火曜日

Dead winter dead / 語感の余韻



まあ、春だが。というかここは常夏だが。
だって、寒い時にこんな話をしたら寒くてしょうがないじゃない。




本当は導入にギターによる「歓喜の歌」が入っていて、そこから聴いたほうがよい。
なぜ Dead、という単語を重ねるのだろう、と気になった。というかほとんどタイトルに惹かれて買った。で、歌詞カードを見ると「死、冬の死」と、ご丁寧にゴチック太字で印字されていた。はは、そのまんま。「デッド・ウインター・デッド」という言葉の語感は邦訳よりもはるかに印象的だ。

レコードのデーマはボスニア紛争に関するもの。レコード前半のハイライト「This is the time」がボスニア・ヘルツェゴビナの独立、開放感と栄光に溢れた一風景ならば、「Dead winter dead」は悪化する戦況を切り取ったような、ダークでザラザラとしたリフ・オリエンテッドな一曲。レコードタイトルにも冠されているこのレコードを代表曲といっていい。ザッカリー・スティーブンスのシアトリカルかつ、どこか毒を含んだようなヴォーカリゼーションも秀逸。
95年リリース。今はなきゼロ・コーポレーション。なぜ公文がメタル・レーベルを持っていたのかは未だに謎。


なぜ場所も季節も勘違いなことになってるかというと、日本からの友だちが一冊の本を置いていったから。
『ドキュメント戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争』高木徹, 講談社文庫, 2005
NHKのディレクターによるノンフィクション。
ボスニア紛争があったことは知っている。でもまあ、知らないに等しい。日本語の活字に飢えている昨今でもあるので、興味深く読んだ。

旧ユーゴスラビア連邦からボスニア・ヘルツェゴヴィナの分離独立し、旧連邦の盟主たるセルビアとの反目により紛争が始まった。劣勢だったボスニアは、窮状を訴え国際世論を味方につけるため、アメリカのPR企業と契約する。PR企業といっても電通とか博報堂とか、そういうチラシ企業を想像してはいけない。
PR企業はボスニア政府とともに「コップの中の嵐」に無関心であった世論の耳目を引きつけ、セルビアを悪者に仕立て上げる。例えば、「民族浄化」"Ethinic cleansing"という「コピー」を作り出し、盛んに喧伝する。 
そうしたPR活動は、事実かどうかとはまた別のところで行われていた。企業は契約したクライアントの利益のために活動する。虐殺や強制収容もきっとあった。でも、「民族浄化」の検証はあまり行われず、根拠が曖昧なまま世論や報道は加熱し、セルビアが悪者にされていく。
本書はその過程を丹念に追ったレポルタージュ。

筆者はセルビアが別に「無辜の被害者だった」とは云っていない。しかし少なくとも現在(05年だけど)のサラエボとベオグラードほどの落差、つまり戦勝国と敗戦国の格差ほどには、当時、お互いがやっていることの違いはなかった(例えばボスニアだって「ちゃんと」収容所を持っていた)。PR企業の「戦略」により、国際世論がコソボ紛争を注視し、セルビアを悪者と認定し、NATOが介入して今に至る状況が確定した。ボスニアは「PR戦争」に勝利したわけだ。
"Ethinic cleansing"という言葉はとてもクリアでスムース、響きが良い。それでいて、意味内容に底知れぬ恐ろしさが潜んでいる。道義心を掻き立てるには、とっても秀逸なコピーだ。ユダヤ人の感情に配慮して”holocaust"という言葉を使わなかった、というくだりもとても気が効いていて気持ちが悪い。
ビューポイントによって、きっと全く違う風景が見えるのだろう。筆者の質問に答えるPR企業のインタビュイーとのやり取りを読んでいると、人がゴミのように思えないこともない。クールで淡々としている。だってビジネスだからさ、と言わんばかりだ。


冒頭のSavatageにしても、実はアメリカのバンドだ。このレコードのなかにはいわゆる「死の商人」をモチーフにした曲もあるのだけれど、いま考えると、彼らの怒りはマッチポンプようではないか。
アメリカの企業が兵器を売りつけ、それによる犠牲をアメリカ人が嘆き、怒る。しかしそのアメリカ人の怒りは、そもそもアメリカのPR企業が火をつけ、油を注いだものだったりする。
入れ子状のマッチポンプ。こんな例も珍しい。

こういう行為の是非について、正しいか間違っているかを考えることは、ある世界の人にとってはナンセンスなことなんだろうなという気がしてくる。
強い印象を受けたのは、言葉と、それが与える余韻だ。その余韻の破壊力、といってもいい。「キラーワード」は戦争の行方すら決める。呆然とせざるを得ない結論。それこそナンセンスな世界ではないか。
高木は文庫版のあとがきで次のように述べる。
「はっきりしていることは、「PR戦争」の倫理を問い、その答えを見つけ出すまで、現実のさまざまな「戦場」で戦っている人々、そして日本という国、そこに住むわたしたち国民が待っている余裕はもうない、ということである」
こんな風に皮肉を吐いている余裕すらないということなのだろう。でもさぁ、というふうに思わざるをえない。



伊藤計劃の『虐殺器官』(早川書房, 2007)では、サラエボの街は熱核反応により消えてしまっている。ああ、こちらはフィクション、SF小説。ネタバレなので読んでない人は気をつけてね。サラエボは実在します。
結論からいうと、「虐殺器官」とは言葉であり、文法であった。
「キラーワード」はコトの成り行きを決めるだけではなく、人だって殺すだろう。そういえば、この小説もPR企業の人間が重要な役割を果たしている。フィクションだけれど現実に近い、というよりも現実そのものじゃないか、と思う。前掲書を読んだ今となっては。
言葉なり文法なりを扱うのがスムーズでクリーンな世界に生きているクレバーな人間であるというところもなにか引っかかる。事件は会議室で起こっ(以下略)。たとえばそういう人はしばしば敬虔なキリスト教者であったりする。僕にはもう、よくわからない。あまりに整合しない事柄が並んでいる。


高木も言うように、「民族浄化」という言葉はすでにバズワード化していて、その後のコソボやソマリアで使われている。一見すると民族対立しているから「民族浄化」というワードを当てはまめて使っているように見える。

だが、「民族浄化」という言葉がまるで枕歌のように紛争を呼び込むものだとしたら?Cleansingというスムーズでクリーンな言葉の使用は、安易に「アイツらをクレンジングしてやれ」というコピー・キャットを生み出しはしまいか。小さな諍いを、手の付けられないような鬼胎に育てあげはしまいか。「適切な」言葉が人の行動を規定してしまうような。
もしそうであるならば、きっと世界は前書よりも本書に近い。

いまセルビア人がボスニア紛争のことをどう総括してるだろう、と想像する。あるいは僕ら自身が僕らの行為をどう総括するだろう。「虐殺器官」のような結末を欲望するのは、彼らかもしれないし、もしかしたら僕ら自身かもしれない。
スムーズでクリーンでクレバーなやり方が、とてつもなく愚かしい結果を招くことは、たまにあるよな。