なんかちょっと秋っぽくなってきたような。気のせいかもしれないけど。
極小のドラム・セット。少しだけ、テクニックをひけらかしているんじゃないかっていうきらいもあるけど。恐ろしくタイトで、繊細なプレイ。スネアの締まった音。シンバルの震え。ハイハットの余韻。ひとつひとつが耳を澄ませる価値がある。
最初はジャズなんだろうなと思って聴いていた。未だにジャズなのかよくわからない。このImaedaさんも今ひとつ情報が落ちていない。ドラム講師っていうのがちょろっと出てきたくらいで。生成AIさんに訊いてみたら、お前がジャズだと思うんだったらジャズだよ、という。そうですか。
音の作り方としてドラムに焦点が合うようになっているからリズムとタイコの音に耳を澄ませることができる。じゃあ、メロディは添え物かといえば、そんなことはなくて、背景として楽曲の主題を決めていて、しかも美しい。主題があるからそれに合わせたリズムがある。コントロールしているのは主題なのだけれど、制約を受ける側であるはずのリズムが輝く。
僕は"Lambic 9 Poetory"が大好きだ。たぶん、個人的累積再生回数は1,2を争うくらいには好き。スクエアプッシャーが好きなのではない。"Lambic 9 Poetory"が好きなのだ。この曲も人力ドラムンベースの背景に、淡く美しいメロディが鎮座していた。チキチキいっているのが好きなのもあるが、なにより人力なのがいい。なぜ僕は人力にこだわってしまうのか。よくわからない。
そういえば、どうもあなたは淡々とした音楽が好きですよねって言われたこともある。興味深いことに、その人は僕のメタル大好きな趣向を知っているのにだ。やっぱりよくわからない。きっと僕は普段、鍬を振るいながらイヤホンをして血の涙を流していることを、きっとその人は知らないのだろう。
どうして今枝さんが琴線に触れるのか。ジャズだって好きだけど、さすがに血の涙は流さない。しばらく聴いていて、なんとなくわかった。これはエレクトロニカ的な何かだ。たぶん、リズムが打ち込みであったとしても違和感なく成立する世界観。初期のAlbum Leafとか、初期の高木正勝だとか。Jazanovaとか。きっとああいう世界に近いのだ。
僕がエレクトロニカに接するようになったのには、いくらか屈折した経緯がある。それまでは人力しか認めないと思っていた。世界の音楽がみんなダウンチューニングで、丸太ん棒のような腕でぶっ叩かれるスネアの音になってしまえばいいと。
インダストリアルだって抵抗があったくらいで。でもインダストリアルって(当時)矛盾の解消のように思えたのよね。重たいものを素早く動かすって、そりゃ動力に頼った方がいいわけで。筋肉モリモリのドラマーは相変わらず好きだけど、重さと速さと正確さ究極的に両立してしまったのが、僕の中でのインダストリアル・ミュージックの認識だった。
機械への憧憬はさらに続く。機械リズムは妙な、よくわかんないリズムというか間を作り出す。もはや僕のホームとしていたメタルは、なんだかどうでもよくなってしまった。
たとえば川の流れを眺める。地形だとか石ころだとかで、流れは一定しない。たまりでは妙に静かだったり、別のところでは早い流れが渦を巻いていたりする。トータルの流れとしては一定なのに、場所によってリズムの違いがある。そのくせ、妙なフラクタルを感じさせもする。結局世界は単純なのか、複雑なのか。まあ、重層的であると言ってもいい気はする。
このご時世、機械はもちろんなくてはならないけれど、情感を転がす助けとしても、ある程度有効なツールなのだと思う。高木正勝らは、結局人力の世界に還ったが、それも「機械の時代」を通過していま芳醇な収穫期を迎えているイメージがある。Album Leafはジミー・ラベルが歌わなければいいのに、と思っている。20年くらいは思っている。
翻って、今枝さんの音楽を聴くと、人力でやっていることはもちろんポイントが高い。人力大好き。一方、機械音楽を経て萌芽した音楽という感じがする。主題が背景にあって、たゆたったり急に転がったりする。それはまるで、ぼんやりと川を眺める感じだ。
ほとんどは1、2分の短尺の曲というのも結論としてはありだ。レコードはどれも短く、リズムの見本市みたいでもあるけれど、見せたい風景がぱしっと切り取られ、提示される小気味よさがある。長尺の曲もできるんでしょうけど、プログレみたいになっちゃう。制約がほんとうに制約として機能してしまったら、これほど小気味よくは聴けないかもしれない。
これからの活躍に期待、というほど大きな口はきけないけれど、また好きだなと思えるものに出会えてよかったなぁと思うんです。