日本では仕事柄、じいちゃんばあちゃんと話をする機会は多かった。
あんたは旅の衆かい?よく訊かれた。いいえ、ここに住んでます、と僕は応える。でも、生まれは違うだろ、じゃあ、旅の衆だ、ごくろうさんだね、とじいちゃんは笑う。
今に至るまで、うまく「旅」という言葉のニュアンスが掴みきれていない。
ニホンゴムズカシイ。
以下、平和ボケをかましているベトナムで考えごと。
「旅」の安全について。
パスポートは命の次に大事です、と教わりました。つまり、一番大事なのは命ですよね。
なにが僕らの安全を担保しているのだろう、と考えている。
ひとつにはたぶん、本国のイメージ。イメージに繋がるものとして、僕は見られる。僕が他の国の人間だったら、受け取られ方は当然違ったはずだ。
あるいは、実際の交流でお互いを知ること。
今僕が住んでいるカマウ省ウミン郡は、10年ほど前から日本のODAが入っていた。農家にいくと、いまだに10年前の話を聞かされる。この道はJICAが作っただとか、専門家がこんな人だったとか。あ!写真がある!かあさん!あれどこしまったっけ!等々。
僕の知らない時代の話。僕に至るまでに、この場所に現れた日本人たちの話。
今、彼らが僕をどう思っているのかよくわからない。「そんなに違わない存在」として感じてくれていれば。「日本人はグレイトだ」という評よりもよほど嬉しい。同じ物を食べ、同じ水をのみ、言葉が下手くそだけれど、宴会で酔っ払う、ただの人として。あいつらのほうが身体は強いけどな。
僕が彼らの中に同じものを見つけ出すこと。彼らが異邦人である僕の中に同じものを見つけ出すこと。ここの人たちと変わらない、普通の人であることを知ってもらうことで、これから来る人の安全を担保する。かもしれない。
オマエはもう飲み過ぎだから(・∀・)カエレ!!とは云ってくれる。
彼の国で起こってしまったことは、とても不幸なことだった。そして、その不幸に相応しい理由が見つからない。考えても考えても、見つからない。
安全ではないならば、閉じこもる方がよいのか。拾う必要のない火中の栗は拾わない。
でも、誰がそれを「拾う必要がない」と決めるのか。誰が彼らに対し「拾うな」と命じることができるのか。
つまらない話をしてしまえば、人がすることは所詮、人がすることでしかないのだ。旅にはリスクがある。リスクを冒して旅に出る理由は、旅人によって違う。「拾う必要があるかないか」は人それぞれだ。
日本でだって、見ず知らずの他人と隣同士で暮らしている。なぜ日本であれば隣人に安心できるのか。その根拠はなんだろう。人間関係を区切ったり、砂粒のように考えてしまえば、その格子や砂粒は際限なく細かくなる。
誰ひとり、信用なんてできるはずはない。
撤退を繰り返して、モニターの前に一人で座っているしか、やりようがないのだ。
「旅に出るほうが悪い」「自己責任」という考え方も、人がすることである以上、ある程度以上は正しい。でも、それもやりすぎると、やっぱり人々を砂粒に変えていく。
選り分けて、純度が上げて、なにかいいことがあるんだろう。引きこもって、コストを下げて、何を買うつもりだろう。
リスクを考えていたらキリがない。どこかでハングしてしまうしかない。ハングするに当っての心構えが、もしあるのだとしたら。
「旅」が続く間は、先の旅人は後の旅人のことを考えてあげてもいい。後の旅人はその後の旅人のことを考えてあげるともっといい。在所にいる人は、旅人のことをちょっと考えてあげてもいい。どこの人であろうが、在所に来た旅人を気持よく迎えてあげると、なおいい。
「宛先不明の配慮」の積み重ね。実際できるのは、それくらいしかないのではないか。この場所で10年も続いた誰かさんたちの配慮を、僕がいま「たまたま」享受しているように。本当にたまたまなんだから、実際のところ。
もちろん、友愛を基に行動していれば全てうまくいく、とも思わない。誰かさんみたいに。「よきサマリア人であれ」とも言わない。おれそもそも日蓮宗だし。
ただ、外に対して敢えて物騒な態度でいる必要はないでしょ、と思うだけだ。
日蓮上人は十二分に物騒な人だったんみたいですけどね。
勇ましくて、鋭く尖った言葉は、一周回ってどこかにいる旅人を傷つけるかもしれない。
旅人が後ろから撃つことだって、あるだろう。
もちろん実際に引き金を引いた人が別だとしても。「本当に」撃った人は、撃ったことにも気が付かないかもしれない。被害者のようにさえ感じるかもしれない。
「悪い」マッチポンプの入口がすぐ近くに潜む感覚。そんな危うさを感じる。
態度を示すための態度なんかで、人は傷ついてはいけない。
どうも煮え切らない文章だ。
なんとなくぐずぐずと、そんなことを考えている。
最近の風まわりは、どうも不吉だ。