2015年5月17日日曜日

かわいそう、から、もう少し先に進んでみる

ベトナムの某国立公園にて。知人に自分の多様性ギライを開陳していたんです。かわいそうくらいしか理由が思いつかねぇと。そしたら、彼女は「かわいそうでいいじゃないですか!」と咆哮してました。その勢いに僕は思わず、のけぞった。

でも、いいのかな、ほんとに。

今日ひさしぶりにフィオナ・アップルを聴きました。"Extraodinary machine"しか持っていない。2005年だ。相変わらず世間に唾しながら、ほのかにやさしい歌声。
最近彼女は何をしてるんだろう。ウィキをみると、12年にレコードを1枚出している。もう37歳なんだ。歳相応の容貌というよりも、もう少し、やつれた感じ。大丈夫か、フィオナ。
フィオナ・アップル Wikipedia
フィオナは菜食主義者で「動物の倫理的な扱いを求める人々の会」の支援者であるという。ほう。そうなのか。


これは最初、以前のエントリーの続きとして書かれたんですけれど、手を入れてみたらどうも、そうでもなくなってしまった。
根拠付けからの快刀乱麻『生物多様性の経済学』




友だちからこんな話が。
A:「地球上の生き物はみんなで守ろう、国境は関係ないぜ!」みたいなのがありますが、一方で B:「郷土の生き物を守ろう、佐渡のトキ!」というのもあります。で、同じ人がAもBもいっている(やっている)ことも見かけます。これは何なのでしょうか?Think globally, act locally?にしても都合がいいように思います。

そういえば、最近こんな話もあったんですよ。
トキ公開 佐渡以外でも?環境省方針に市は反発  1.4.2015 日経新聞
分散飼育しているトキもせっかくだから公開しようぜ、に、トキ本家・佐渡市が激怒。
笑い事ではありません。ちょっと、ふふってなったけど。



「トロフィー・ハンティング」と呼ばれる神々の遊びがあるそうです。野生動物の狩りをするスポーツというか、レクリエーション。黙って狩りをすると密猟なのですが、大枚をはたいてライセンスを購入することで合法的に狩猟ができます。

あら奥さん、とっても興味深いもの見つけたわ!とってもお安いの!
Hunting price list for the 2014 and 2015 in South Africa   African sky hunting
ページのシーズンがずれている気がする。あと、ドメイン名がザンビアな気がする。
プロのハンターをつけて一晩450ドル(ごはんつき)。そして「トロフィー」こと「狩った野生動物」に応じて値段を払う仕組み。クロコダイルなら7,450ドル、ライオン(オス)で23,000ドル、ゾウで45,000ドル。へー。
「ゾウ狩り10dayツアー」は軽く私の数年分の年収が吹っ飛ぶ、という理解で宜しいのでしょうか。バイオハザードでゾンビを狩っていたほうが身分相応ですね。モンハンでもいいです。

ポイントはライセンス料金の法外な価格設定。ライセンスによる収益は、密猟防止のための監視員(からの地域住民の雇用)に充てられる、そうです。
そして、大沼さんの本には、トロフィーハンティング(と自然死したゾウの象牙の定期的な売り払い)で実際にアフリカゾウの個体数の増大したという報告が載っている。



そもそもそもそも。
僕が大沼さんの本を手にとった理由は、「生物多様性を守る理由」が知りたかったから。
本書で大沼さんは「なぜ守るか」という問いを「なぜ、人の手で絶滅させなくてはならないのか」と逆回転させてみる。
ハッとした。コペルニクス的転回。
でもさ。やっぱり。考えてみても、そんなことは知ったことではないのよ。ニーズが先にあって、絶滅は結果でしょ。予め意図され絶滅ししたものなんて例外的なケースだ。天然痘とか、日本住血吸虫とか。
絶滅に瀕している種とコミュニケーションが取れたとして、「どうしてくれるんだ」と問うのであれば、なんかごめん、と答えるんだろうね。

しかし、「なぜ絶滅させなくてはならないの?」と発された問いには、一定の効果がある。エコーロケーションを経て「我々は人間でしかないこと」を追認識させる、ような気がするんだ。
他の生物種に対して、セルフィッシュで無責任な態度。人という存在の底が見える、というか。もちろん、悪いことではないんですよ。
生態中心主義と対をなす価値観としての「人間中心主義」の肌ざわりというか、微細な形状が露わになるような気がする。
意味のある問いだと思うんです。


こんな妄想。
お出ましになるのはドレスアップした紳士淑女たちだ。ひつじを前にして、こんなふうに言うんだよ。たぶん、シャンパンを片手に。
「決めたよ。君らにこれから権利を与えようと思うんだ。はは、そんなに緊張しないで。歓迎するよ。ようこそ。私たちの道徳サークルへ」
そしてたぶん、手を差し出すんだ。すっとね。
スマートな立ち振舞いに、ずんぐりむっくりのひつじ的僕はイライラする。
そんなのいらんから、柔らかくてみずみずしい春の若草をくれよばーか。そう云うだろう。

ひつじ年の年男なので、ここはひつじを召喚してみた。ひつじにだって、ひつじ的正義とひつじ的価値観があるのだ。もちろん共通する価値観はある。痛いのはやだとか、寝るのが好きとか。ちなみに、僕は、ラムチョップが、大好きです。

こんなふうにひつじを装うと、ひつじ的立場を密輸できる。ただ、それは人間としての僕がひつじ的心情を慮っただけであり、実際にひつじが何考えてるかなんてわかりっこない。
「相手の気持ちを斟酌する」のは一つの徳目ではあり、他の生き物にも拡張は容易。ぷーさんでもうーふでもいい。でもそれはやっぱり人が考えていることであって、動物自身が考えていることではない。
エコーロケーションを繰り返すことで、生態中心主義的/ディープエコロジー的なものは馬脚を露し、人間中心主義のカッコの中に入った存在であることが明らかになる、ような気がするんだ。

あ、なんかいろいろな人を敵に回しているような気がしてきたぞ。



ごちゃごちゃしてきた。思いついたことを順にまとめよう。

○トキを守る理由と地域振興は別の話。
最初の目的は佐渡振興ではなくて、日本におけるトキの復活であったはずです。だからこの「最大の善」とは、トキの個体数の増加であるべきです。
A,Bどちらの立場に立とうが、目的を考えれば別にどっちでもいいはずです。目的は一緒、手段というかビルドアップする方法が違うだけ。
ほんとに最初、トキを復活させよう、と思ったのは「総体としての」日本人なのでしょう。一方、佐渡の観光関係の方々はトキでビジネスがしたい。どちらも人自身に動機があります。

なにより「誰が泣くか」は本論ではない。
トキに関して言えば道徳性サークルなんてことを引き合いに出さずとも、保護(むしろ創出か)ができたわけです。人間中心主義の論理で。それでいいではないか。
あとは人同士の調整の話でしかありません。アフリカの国立公園のように就労機会がないから密猟者に転職することなんて、ほぼほぼ考えにくい状況ですし。
トキを軸にした地方創生が大事だ、というのも拝聴に値する議論かもしれないけれども、本論からは外れます。人と人との話って結局ビジネスなので、「誰が泣くか」は最終的には考慮に入れざるを得ない。でも最初からその話はすべきでないだろう。


○「欲望の調整弁」としてのトロフィーハンティング
トロフィー・ハンティングの効能って「高額な遊び」に設定することで人間の欲望の調整弁としての機能にあると思うんです。高額だからこそ保護にかかる費用の捻出ができかつ、クソ成金どもの自意識を満足させる効能があります。これもまた、人同士の利害に起因する問題であることを傍証しているのではないでしょうか。
ゾウを道徳サークルを拡張したら、また別の展開があるんでしょうけど、貧乏人はゾンビを狩ろう。


ただ、それでもやっぱりこのやり方にひっかかりを覚える人もいるでしょう。レクリエーションのために希少な動物を殺すなんて、と。また、目の前に捨て猫がいる場合とか、心が動く。


○「視線の」ズレ
「眼前のネコ」と「種としてのネコ」は取り扱いが違う。「眼前のネコ」は取り替えの利かない、固有の存在。プライスレス。
種としてのネコは、最近では地域ネコと呼ばれたりしている。篤志家の団体が避妊手術とかしている。保健所で里子に出されたり、殺処分されたりもしている。
眼前のネコは命がけで守る対象になりえて、種としてのネコはちょっと遠くから冷ややかに眺めることができそうです。
この扱いの違いは、本人との距離に還元できる程度のものかもしれません。でもその違いはけっこう大きいのだと思います。フィオナはここを(もしかしたら意図的に)混同しているように見えます。



そこから先は言えることって、ごく少ない。フィオナのように「美しい鳥を殺す」行為そのものに忌避感があれば、どのように説得したってダメだろう。そもそもライフスタイルの問い直しは、種の保護とはまた別の問題です。
主義とか趣向とか趣味とか、そういう部分に強く依存した主張は、どれだけ純粋であっても、もしくはその純粋さにより合理的な解決策を遠ざける可能性はあるんだと思うんですよね。
個人的にディープエコロジーに嫌悪感を覚えるのは、その純粋性にある気がするな。


いずれにしても、最初の目的ってなんだっけ、って不断に考えるのは大事ですよね。そんな話。