2015年6月21日日曜日

「森の神秘」にこそ、問題があるのかも 『緑のダムの科学:減災・森林・水循環』

6月1日は開学記念日でおやすみです。農学部スキー部としては富士急ハイランドに行くのが習わしでした。部員は水をかぶるアトラクションでポンチョを着てはいけないのも決まりでした。なんでだろう。
既に卒業から10年過ぎ、未だに私の中で荒ぶる信大愛。今年の6月1日は普通に現場に行ってました。この期に及んで郷愁の強風に煽られ、エモいことを言っているのか。
その理由は、大学の後輩さんをお名前を書籍の中でお見かけしたからでした。


緑のダムの科学: 減災・森林・水循環

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森林関係書籍はフォトジェニックだから、面出しされているとつい買ってしまう。
よいこのみんなは、もりとか、しぜんとか、だいすきだろ?



五名さん、ご活躍されているようでなによりです。ほとんど話したことないけど珍しい名字だから覚えてた。残念ながら信大の名前は大学院の名前で上書きされてしまって確認することができません。
あと、北ちゃん(注:北原教授)等、信大人脈が散見されることも私のナショナリズムを煽る原因であります。


ちょうど僕が在学中のころです。田中康夫さんが長野県知事になられ、脱ダム宣言をしたのは。田中さんはしばしば、辺鄙な場所にある我らが農学部を訪れ、先生たちとなにやら意見交換をされていました。僕はといえば、ついに林学の時代が来たな、などど心を踊らせながら、テニスとかキャッチボールとかに興じてました。
月日は流れ、民主党政権では八ッ場ダムの建設中止、さらには自民党が政権に復帰するとやっぱやろうぜ、など。振り返ると、ずいぶんいろいろなことがあったね。


本書は「緑のダム」をテーマにした、複数の研究者による編著。
水文学からボランティアによる森林管理、流域にスポットを当てた協同まで、幅広い話が展開されています。なんかこういう話って前に読んだな、と思ったら、編者の蔵治光一郎さんの本を読んでいました。
書評なぞを。『森のめぐみは幻想か』
ベトナム時代に読んでますね。ああ懐かしい。

林学が「緑のダム」を語る時に、僕はある種の違和感が覚えます。特に就職後。
水文学の講座を持っている林学系の大学ってけっこうあります。そりゃ、森林っていえば水源かん養だろ、みたいなところがあります。

ところが就職してしまうと、そういう話はふっとんでしまいました。蔵治さんが述べてもいますが、森林の「水源かん養」効果を測るのは難しい。森林整備はしている。しかし、実際に出て行く水に関してはあまり関心がない。
そして、治山事業で作るダムって利水や水量調節を目的としたものではありません。治山ダムは水源かん養ではなくて、山地災害防止・災害復旧が目的で、後ろ側を埋め立ててしまうことすらあります。というか、標準的に背面は埋めますね。
「洪水時の水量を調節する」ダムは我々のテリトリーよりももう少し下側にあり、それはそれこそ八ッ場ダムとかであり、そういうダムって国交省管轄なんです。ああ、縦割り行政。わかったわかった。



さてさて。
本書は「緑のダム」を軸にして幅広い内容を扱われていますが、太田先生はこのところ出ずっぱりすぎて、いささか筆致に疲れが見えるところが気になります。同じ話ばっかで飽きた、みたいな。自動書記で執筆活動ができるレベルなのではないか。頑張っていただきたい。
それはそうとして、個人的に面白く読めたのは、なんといっても水文学の研究成果でした。そういえば『森のめぐみは幻想か』も同じ意味でずいぶん面白かった記憶があります。
荒廃したヒノキ林では広葉樹林よりも表面流を起こしやすいだから森林整備だぜ、だとか。でも森林整備しただけ樹冠遮断量が減るから、結局のところ水収支はどうなのかしら、など。
わかってきたこと、わからないこと。僕が勉強してたころよりも少しばかり言えることが増えてきたような印象があります。なにしろ当時はゲリラ豪雨なんて単語はなかった。ニーズの変化が学問を進めることもきっと、あるんでしょうね。

東大演習林では70年以上この手の調査を続けている。森林科学とは実に息の長い学問です。
柔らかな文章を書くひともいれば、行政関係者然、研究者然とした書き方しかできないよ!みたいなところも見どころのひとつでありました。


なんかちょっと「水源かん養に配慮した森林施業」とか、やってみたい。こういう本を読むとそう思う。しかしだね、先に述べたように治水の話って林業関係者にはいささか縁遠い。
学生の時分、文字通り怪気炎をあげていた田中さんや、「コンクリートから人へ」という民主党の掛け声が長続きしなかったのは、この辺にひとつ理由があると思います。彼我の距離。長野県がいくら燃え上がったところで、千曲川は信濃川に看板を変え、しずしずと新潟の野を流れ下っていくのです。
むしろこの本を読んで一番衝撃を受けたのは、「緑のダム」の話から遠ざかってしまった自分自身だったりします。遠くまで、来ちまったもんだな。



本書でもいろんな筆者が触れているとおり、人間が期待する「機能」として、コンクリートダムは実に有能です。そこは認めないわけにはいかない。
しかし、ダムつくろうぜ、という選択肢を選び取ろうとしたとき、無意識に「森林は管轄外」という考えがあちら(砂防、治水、河川の人たち)にあるかもしれなくて、だとしたらやっぱり、どこかに無駄があるのかもしれない。

治山と治水、河川はそれぞれ別の法律にもとづいて事業が行われているから、やっぱりみなさんの大好きな縦割り行政問題があるんでしょうね。調整はあるんですよ。でも、流域のマスタープランナーがいるわけではないから。
なんだかそれだけで長い話になりそうだから、別に譲ることとします。
「たぶん、緑のダムの効果ってあるんですよ、よくわかんないけれど」というところが今時点での結論であるように思いました。結論としては僕が学生時代と変わらない。しかし、細部は以前よりも少し明らかになった。それが学問の面白さでもあるのでしょうが。やはり、都市にお住まいの市民の方々には訴求しないと思うんです。

距離の遠さとともに、そうした不確定な要素がここ10年くらいの「緑のダム」敗退の主因であることは疑いのないことでもあります。
もっとも、その敗退そのものはよかった、と思うのです。どうも「森林の全能性」に一点張りというか、ゲタを預けたような話であったように思うから。



たとえば、渇水地においては敢えて木を切るという話も、この本には載っています。木は魔法のように水を生み出す存在ではない。それどころか、木は水の消費者なのだから、水の供給がそもそも少ない場所に木を植えると、水がなくなってしまう。
いわば、人と木が、水を奪い合う世界です。
バスに揺られながら、ヨルダンの乾いた大地を眺めた時、僕は『木を植えた男』を思い出していました。ここも日本とは違う意味で、問題を抱えた土地です。


かつてレバノン杉の生い茂っていたという大地を、今ここに戻せるのであれば、それはどんなに素敵な仕事だろうと。風景を眺めながら、この場所で木を植える生活を少しだけ想像していました。
必ずしも現実は、物語のようにはいかない。

もっとも、森林の蒸発散によってベルトコンベアーみたいに内陸部に水を運ぶという、日本人には理解できないくらいのウルトラマクロなシステムもある(そうでないと、コンゴやラオスみたいなところに森林が存在できない)そうで、世の中まったくわかんないことに溢れてますね。
なにしろそういう種類のことは、森林の神秘かもしれないけど、ほかならぬ地道な研究によって明らかになってきた。




このいぬ。きったなくてぶっさいくなくせに、くそかわいかった。



だから、古老の伝承のような「ブナが水を作る」みたいな話は、森林を神秘化≒魔術化させてしまうように感じられます。原因と結果が逆なのに、「いい話」で落ち着いてしまう。森林のを神秘化し、その全能性に賭け、安易に寄り掛かるようにみえる。少しだけズルいし、理路としては愚かですらあるように思えるのです。

全然違う話だけれど、内田樹さんが以前どこかで、「原発は寺社のように祀らなくてはいけない」とお話されていたことが、不思議と心に残っています。原発の建屋を親しみやすくペインティングするなんて、もってのほかだと。もちろん半分くらいは冗談でしょうが。
核の火は、利益があると同時に災厄の神でもありました。だから、「荒ぶる神」を鎮めなくてはいけない。僕はこれに一面の真実があると感じました。どこか、森林に対する接し方と似ているように思うのです。

いうまでもなく、山や森林は古来より信仰の対象です。しかし、「災厄の神」でも「与福の神」でも、一度そんな風に措定してまうと、コントロールできない。
「緑のダム」の政策論議をしていたとき、ひっそりとこの「神秘」を密輸してはいなかったか。論じ合う人の心のなかに。森林を尊きものとして、崇め奉る。悪いことじゃないし、ごく普通の心性です。
しかし、この心性は研究や仕事に運用できるものではありません。治水や河川の人たちはどう思うだろう。彼らは本尊を祀っているだけだ、祝詞を上げているだけだ。そう言われたら?はやり、どこかできちんと整理しなくてはいけないことだと思うのです。


僕自身、森林の神秘は心地よいので、歯切れよくはいかない。
でも、どんな分野においても科学と神秘が互いを分かたず、ないまぜになっているのが、一番危なっかしいくて、ロクなことがない。
なんとなく、あの時の「緑のダム」は潰れてよかった、と思うんです。振り返ってみるとね。